緑の洪水。
 ただ、立ち尽くしている。
 音のしない耳鳴りに苛まされている様。
 気付いて初めて、俺は産声を上げられる。
 原初の世界。歴史の末端の光景に。

 転び続ける茨の道で、見えない虹だけが私を貫いた。
 傷つけることなく。ただ踏み迷うのみ。

 隻腕に隻眼の剣士。残った右腕で巨刃をもった大刀を右肩に担ぎ、腰を落としていつでも切り下ろせるように構えている。潰れた右目はただ閉じているようにしか見えないが、血の涙をとうとうと垂れ流し続けている。
 とても悲しい。その傷は。
 その傷は、私を殺せない。

 そして目を開ければ、木々の間に倒れた俺の身を包むのは冷たい雨と斬りつけるような極寒の颶風。
「…………なるほど。……富士の樹海か」
「ちがうわい」
 べこ。
 呟きに反応して振ってきた塊が眉間を痛打した。冷え切って神経が過剰反応している皮膚にはひどく痛んだ。

「あの子は多分『仮想神』だ」
「聞いた事もない」
「つまりだな、『神様』を『人間を守護する超越者』と定義した場合に、実際にはそこに何も存在していないが『ヒト』の想念の集合の近似値がホメオスタシス恒常性維持能力を持って『神』のような振る舞いをすることがあり、この世界に干渉できるようになった意識の特異点をこう呼ぶんだ。
 例えて言えば三角形の重心のようなものだな。実際は重さがそこに集まっているわけではないが、そう見なしても問題がない。問題がない以上そう考えても間違いではない」

 脈絡なく転がる死体と男を前にして、何故か俺は取り乱すこともなく、
「そこにいるんだろ?こいつをやったあんただよ」
 物陰に潜むそいつが解かった。
「……何言ってやがんだ?馬鹿の振りしてごまかそうとしてやがるよこいつ。おいおいおちびちゃん、そんなところには誰もいませんよ?わかる?」
「五月蠅い」
 すれ違いざまに男の体に綿津見の刃を触れさせる。それだけで、そいつの体液という体液が沸騰して肉体が爆散した。
 血潮降りしきる裏小道、真っ赤な雨に濡れながら、
「木偶の坊」
 呟く言葉も苛立たせるだけで。
「こんな奴の相手なんかしたくないんだよ。用があるのはあんただ」

「いずれ起きるであろう現象の原因と結果を直結させてやる。そういう技術だ。風水の究極系とでも言えばお前らにも分かるかな?」
 油をたっぷり垂らして磨き上げた刃の上に滲む血液が斑を描いて滴り落ちる。紅い命。なにもない、なにもない、朝の目覚めを告げる木偶人形。全てを嫌い全てを敵に回し、そして全てを超えて全ての元に君臨する。嗚呼――――最強者は世界を壊したくて仕方ない。
「此処に来い、此処に来い、
 此処に居る、此処に居る、
 俺は此処に居る。お前の敵は此処に居る!」
 凶々しい道具が肉体を壊し、毒を持つ言葉が緩やかに心を蝕む。神秘を知識に摩り替えた魔王。
「いいねえいいねえ殺人鬼。俺はこういう戦いを一度やってみたかったんだ!」
 騙されること。弱すぎる肉体。
 交わる他人。空っぽの嘘。
 何が必要で何が足りない?
「正体を隠す必要があるから本気を出せず、互角に戦える時間が制限されている。相手を人気のないところに誘い出し、味方さえも振り切って、一体多数になりかねないリスクを犯して、やっとそこでフェアな勝負が出来る。撒いた仲間の援軍が到着するまでの僅かな時間だがな。
 ぞくぞくするじゃないか。どうやったらお前に勝てる!?こっちの手札はこのちっぽけなナイフ一つきりだ!どう戦術を張り巡らせれば良いものかね!」
「……何がおかしい?」
「可笑しいんじゃねえさ楽しいんだよ!
 安心しろよ、泣きも叫びも逃げも隠れもしない、ましてや黙って殺されも逆にお前を返り討ちにもしやしないさ。
 ……どうした人殺し。こんな人目につかない所はそう無いぜ。何がしたかったんだ?何をしようとしてたんだった?
 やろうぜ。さっさと。今すぐに」

「俺には効かない。曖昧なものを曖昧なゆえに呪いとして用いるお前の術では全てを認識できる俺を誤魔化すことは出来ない」
 俺が見た限りでは、奴の術は自身の認識できない不確定な事象の一部を自分の望むように想像し、それを実際の事象に直接混ぜ込んでいる。だがそれは結局独りよがりな思い込みに過ぎない以上、他人に認識されている事象に対しては勝手に改竄することは出来ないということだ。
 解かりやすく言えば、術者と観客の双方から見えないところからしか鳩も万国旗も出せない手品師。何しろもともとタネはない。タネがないと明らかに分かっているところではどう頑張っても手品は出来ない。「もしかしたらタネがあるかもしれない」と思えるところからしかびっくりするような不思議な出来事は飛び出さないのだ。
 俺は全てを識っている。である以上、どこにもタネがないこの手品のステージにおいては、俺を騙せる手品師はこの世にいないことになる。

 同じ剣でも竹刀とナイフでは随分と勝手が違う。刃渡りが五分の一しかない綿津見の刃では剣道と同じ構えでは扱いにくい。本来剣道は両手持ちを基本にしているからだ。
 昔剣道部時代に出会った二刀流の使い手は(公式試合では認められるルールもあるらしい)片方を牽制に用い、もう片方で打って来た。もちろん剣圧は普通の両手持ちに届きもしなかったが、文字通り手数が増えていたので攻め込み難かったのを覚えている。
 ナイフは重量が長剣に比べて格段に小さい。片手で扱っても武器に体が振り回されることはない。その代わり素手の相手に対する帯刀者の利点であるリーチの長さをほぼ捨て去ってしまっている。
 ならばこいつは剣術に則った得物ではなく、格闘戦の攻撃力を増すための凶器であるべきだ。
 もっとも触れるだけで相手の肉体を爆砕できるこちらが純粋な格闘戦を挑む意味は本来ないのだが、第三者に状況を認識されないことが条件である以上人目がある環境下では常識内の行動を取らざるをえまい。

「伸びた……だとぉ!?」
 瞬時にしてナイフが日本刀よろしく片刃の刀に早代わりした。とはいえ、この長さになった時点で攻撃手段が剣術を用いるものに限定させられてしまうのも確か。

「それってずいぶんと淋しい考えじゃない?」
「黙ってろ亡霊娘」

形はなく
どこにでもあり
常に優しく
時に荒々しく
とらえどころはなく
この大地の上で
吹き
流れ
とどまる事を知らない
風と水
だが
どちらかと言えば風の方が自由なのだ。

「おっと動くなよ。喉笛に風穴が開いちまうぜ?声域が一オクターブ広がって素敵なオペラ歌手になりたければ抵抗してみるのもいいかもな。それだけの時間があるかは保障しないが」

「っっしゃあっ!」
 それこそ爬虫類じみた素早さで藍の右手が跳ね上がる。
 狙いは高屋敷の左胸!
「ひゅうっ!」
 ぞっ!
 辛うじて体を倒すが間に合わずに左の腕の半ば辺りがごっそりと抉られて行く。
 だが。その傷口からは血が吹き出ることも、赤黒い筋繊維が顔をのぞかせることも無かった。
 ただ、白いもやのような物がわだかまっているのみ……
「!?」
 一瞬の隙。
 ナイフの閃きが止まる――――。
 ずだんっっ!
 生まれ出でた空白の瞬間を塗り潰す踏み込みの衝撃。
 無理矢理な体勢から、高屋敷は片足の一蹴りで藍の元へと跳びこんだ。
 密着状態に移行する間合いに舌打ちしながら、藍の肉体も重心を後ろに弾き出す。
 バッタの様に跳び退りながらその場に残すようにして刃を投擲する。かわす暇も無く、それは追う者の右肩に突き立った。
 それを気にも留めず、高屋敷の千切れかかった左腕が鞭のようにしなり、藍の顔面を捕らえる。
「へ……」
 吐き出す呼吸が形を取れないまま。
 まばたきが終わりきらないまま。
 次いで胸元に突き出された右腕とすくい上げるような足払いの連撃で、藍の躯はチアリーダーのバトンのようにきりもみして後頭部から地面に叩き付けられた。
 ごっっつ……
 ……鈍い激突音を耳が受け付けたのは、その一呼吸後だった……
「いくら身体を手に入れたとは言っても、慣れない神経の配置では思い通りの動きは出来ないだろう」
 超然と藍を見下ろしながら言葉を紡ぎだすのは確かに高屋敷。だがその目も、声も、俺が知っているものではありえない。
 ――――それこそまるで――――幽霊のように――――
「な……何やってんだ、あんたはっ!!」
 自覚しないまま、叫びを上げた。
「今はただでさえちょっと遅刻したから頭をはたきました、ってだけで体罰扱いになるような時代なのに生徒を病院送りになんかしたらそれこそPTAが何言ってくるか!
 ただでさえ問題児が多くて心労重なってるところに教師がこれじゃ校長が泣くぞオイ!!
 それでもし週刊金曜日とかにパパラッチされたら『まさか高屋敷さんがそんなことを』とは言われないで『いつか何かやるんじゃないかって思ってました』って言われちまうぞあんたなら!!」
 なんにしろ幽霊に取り憑かれて凶暴化した藍を状況判断できてないとはいえあっさりブチのめしてしまったということは、奴はおそらく一般人ではない。
 俗に言うカタギじゃない。スラングで言えばパンピーじゃない。英語で言うと……ポピュレーション?じゃない。じゃない?間違ってたっけ?いや、それよりwhat I said is not related at all to the matter under discussion now!(俺の言ってることは今議論されてる問題とはまったく関係ない!)
 どうやら混乱しているのは高屋敷だけではないらしい。俺もだ。

「自分が有利な時は力に任せて好き勝手やってたくせに、死にそうになったとたんに身の上話始めて同情惹こうってのか?お前が殺してきた奴らにも同じような事情があったっていうのに自分だけ特別扱いして見逃してもらえるとでも思ってんのか?
 ああ、そういうこすっからいやり方、俺は嫌いじゃないよ。ある意味俺にそっくりで――――叩いて潰してやりたくなる」
 高屋敷の右腕が藍の体から幽体を引きずり出した。隻腕隻眼の青年。

「私はここに来るまでにいくつもお前をこの争いの舞台に引き込む為の仕掛けを置いてきた!そのはずだ!なのに何で……何でお前は」
「本当に間抜けだな。
 何百年と幽霊やって何でも知ってるような気になってたんじゃないのか。直接手が下せなくても影でこそこそ糸ひいて全部自分の思い通りになるとか考えていたんだろ。どうにも恥ずかしい勘違いだな。
 模範解答を教えてやろうか。
 もし本当にお前が俺を巻き込みたかったんだったら俺の前に現れてたった一言、こう言えば良かったんだよ。
『その力は人が持つべきものではない。その刃を返して貰おう』ってな。そうすりゃ俺は喜んでこのトカゲの尻尾をお前さんに叩き返してただろうよ」
「あのー、左の小指なんだけど」
「そんなこたどうでもいい」
 そう。こいつはただ、どこまでも根性のねじくれ曲がった筋金入りのひねくれものが事態に関わってくるという可能性を全く考えていなかったのだ。命令されたらそれに逆らい、懇願されたら嘲笑ってその手を振り払い、拒絶された仲間に勝手について行き、どこかで見たようなシーンに出くわせば、徹底的なまでに本来望まれるべき行動からかけ離れた態度を取るような。
 ……たとえそれが、偶発的に生まれたものだとしても。
「虚空華。あんたの負けだ」

 それは、俺にはもう言うことの出来ない言葉。

「僕は虚空華のやりたかったことが正しいと思う。だから」
 藍が。くるりとナイフを回して逆手に握り直す。
 何かを決意した目だ。
「あなたを殺す」
「甘っちょろいな」
 言葉よりも速い。
 空間を切り裂く閃光が藍の体を宙に舞い上がらせた。連続して着弾する弾丸が肉をこそぎ落として骨身を叩く。硝煙が視界から消えることなど考えられないほどの、乱射と言ってもいい常識外れの弾幕がコルトパイソンから撒き散らされた。
(早撃ちとかそんな次元じゃないぞこれ……!?)
 リボルバーからマシンガン以上の弾を吐き出しているのだ。これを魔法と呼ばずなんと呼ぶ?
 為すすべなく肉片と化して石畳に崩れ落ちる藍の欠片。
「……いたい、いたい」
 ……それが口を聞いた。
 未だ煙を上げているそれから突風が巻き起こると、めり込んでいた石畳から抜け出すようにして五体満足な藍が起き上がる。
 いや、「ように」ではない。実際に人型に石畳が窪んでいる。欠損した肉体を補うために地面の物質を原子レベルで組み替えたのだ。
 エントロピーを無視するまでに「経過消滅」が強化されている。
 どのような法則でも基本大元となる原則には理屈をつけることは出来ない。物理にしても「力をどのように加えればどうなるか」を説明付けることが出来ても「なぜ力は存在するのか」を解き明かせはしない。
 なるものはなる。それ以外に説明の仕様がない。それが事実であり全ての大前提。反例がないというだけの理由で根本に位置する天上天下の絶対真実。
「それを幸運だけを味方につけて、原則よりも前の段階から法則自体をひっくり返す。
 全てを覆し全てを無視できるたった一度の絶対法則。
 たとえどんなにありえないことのように思えても、起きる確率が1%、いや0,000000001%でさえも、完全に0%でない限りはあいつの前では100%に等しい」
 風水の究極形と奴は呼んだ。

 耳元を掠めて過ぎる銃弾。見えるわけも無いそれが銀色に光っていたのはやはり錯覚か。
 頭の後ろで。何かが千切れる。
 失われる感触が体を襲った。急激に曖昧になっていく世界。狭いところに押し込められていく自分。渾然一体となって、天と地がワルツを踊る。
 それは、
 狭隘な視覚と、
 限定された触覚と、
 一方的な聴覚と、
 一時的な嗅覚と、
 断続的な味覚と、
 不確かな意識だけの自分……
(ちょっと待て)
 暗闇に溶けゆく意識に待ったをかけるのも、自分。
(『だけ』ってどういうことだ!それが普通だろうに!
 まるで第六感でも持ってたみたいじゃねえかよ……!)
 倒れようとしている体。ひどい眩暈。
 馴染まない。
 まるで熱病にうなされた時のような違和感があった。
(何なんだ、これ……一体どういうことだ?)
 ふらつく体を支えてくれる大地の感触。齧りつくようにして身を起こす。未だ奴らは戦闘の真っ最中だ、撃剣の騒音がぎゃんぎゃん頭をぶったたいて――――
 目が覚めた。
 いつも半分下りていた瞼をかっ開く。気が付いた、ピントの合わない寝ぼけた頭に残る、吐き気にも似た違和感の正体に。
 今までそれこそ手に取るように把握出来ていた藍と高屋敷の攻防が

っつぎいりゃん!!
ごぶぼっ!
ばぐんっる!!

(…………!?)
 砕き待ち受け流し打ち噛み付き蹴り飛ばし抑え殴り切り裂き跳び退き躍り掛かり掴み投げ転がり跳ね起き追い討ちを仕掛け避け捉え爆ぜ炎が閃き仰け反り倒れ嗤い嗤い嗤い突き通し折れ曲がり吼え穿ち引き千切り薙ぎ払い膨れ上がり見る見るうちに治り撃ち撃ち撃ち弾き――――
(追いきれない……さっきまで見えていたのに!?)
 そしてもう一つ。
 供花がいない。うるさいほどにそのへんを飛びまわっていたひらひらの服がどこを見ても見つからない。
 いや……それは正確ではない。
 見えていないのだ。藍や、和磨や、道心達と同じように。もっと言えば、普通のヒト達と同じように。つまりそれは。
(在覚……ね……)
 冗談半分。半信半疑。本気じゃなかった。ちょっとした出来心だった。だが、どうやらそれが――――
(アタリ、か)
 吹っ飛ばされた髪の一房がどうしようもなく目に付いて離れない。闇の中で黒く溶けるその影が何故か強烈な存在感を持って頭の中をかき混ぜる。
(物的証拠を出されちゃな……信じるしかないか、くそ)
 高屋敷に押し付けられた髪留めで纏められた髪の毛。急に曖昧になった世界。単純な計算だ、結局は。

 それは本来ならどこにでもありふれたものだったはずの兄妹の話。
 異端に触れたがゆえに非日常に足を踏み入れざるを得なかったものたち。
 ……俺が彼らを哀れむのは異端を畏れるからでも変化を恐れるからでもない。
 ……ただ……ありとあらゆる非日常を日常としてまでも、在り続けなければならなかったからである……
「肉体はいつか滅ぶ。これは肉が物質である以上避けられない。ならもしも精神という非物質が独立して存在するなら、自我を恒久的に保ち続けることが出来るのか?
 だが精神は日常の中で少しづつ意味を失っていく。肉体が常に与えてくれる五感という新しい情報がなければ、自らの思考しか拠り所がなければ、単調で平板な形に収束するほかはない。
 もしも永遠に存在し続けられる自我があるとすれば。
 それは久遠の流れの中で全ての非日常を日常に変えた後、何もかもに飽きて自身を崩壊させるだろう。おそらく、他に辿るべき道はない」
 ……だから生きていられなくなる。
 ヒトは慣れてしまう生き物だから。
「もしも神が本当に居られるなら。
 神は何もかもを見通していて、永遠の日常の中にいるんだろう。
 だから――――
 神はサイコロ遊びをしない。
 神は驚いたりしない。
 神は……笑うことが出来ない。
 喜びも、悲しみも、人間の生きる意味みたいなものは何一つ――――!!」
 ありゃしないんだ。
「……イライラして来るんだよ。蹴っ飛ばしてでも走らせてやりたくなるんだよ!立ち止まっちまった奴を見てるとな!!
 来い!!連れて行ってやる!!楽しい事を……わくわくするような事を……走り出さずにはいられなくなっちまうようなことを!!教えてやるよ!!!」

 まるで体がドライアイスで出来ているのを忘れて風呂に入ってしまったかのような気分。軋むほどに頭は冷たく研ぎ澄まされ張り詰めているのに、胸の鼓動は肉体が沸騰するほど熱く泡立つ。このままだと首を残して体全体が消え去ってしまいそう。そして、頭に血が昇るより早く――――何もかもがなくなってしまうのだ。

「何で、何で、何で、何で、何で何で何で何で何で何で何で何でーーーーーーーーーー」
 その感情につける名前を俺はまだ知らない。けれど。
 大切だったはずのものが。目の前から消え去っていく感触が。どこかで間違えてしまった選択肢が。心を苛む。痛めつける。
 諦めるのに慣れて。
 くだらないことを繰り返すのが人生なら……この痛みさえも、どうでもいい物にしか過ぎないのだと。考えるしか、ないのかと。
 金曜日は地べたを這いずり回る日。そういったのは確かに自分だった。
(そうでもなければ、あなたに助けを求めたりしないわよ)
 動かない腕。滴り落ちる血。無様に肩で這いずって、綿津見の刃を口に咥える。
 …………ううううううううううううううううううううううううううあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
「嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼あ―――――――――――っっっ!!!!」
 重くのしかかる空に、竜の小指を噛み締めて絶叫する。
 何年ぶりか忘れるほど久しぶりに、俺は涙を流した。

わだつみのみやまがひ龍宮祝祷
 天地の開けし御世は平成の天の戸明けゆくあさひけ東天紅 うみ蒼海漫々と立ち渡り 舞う老の波音こそ潮の干満なれ
 今ぞ時なる重陽にたつ龍神の吟ずる声ありて なみ波浪を蹴たてゝ逆巻く潮の迫るとともに龍神うなばら海上翔け昇り 五色の綵光煌々あまね普くにその雲上に顕ずなり
 願事叶ふにょいほっしゅ如意宝珠三光を発し島上の龍宮に天降り給ひぬしゅじょうさいど衆生済度のほうべんしょうじ方便生死のすがた相助けんと……
 みはかり御神ふかく慮幽くにありて ああ噫かたじけなきかな

 手札はハード。戦略はソフト。極端な話手札が三つしかないジャンケンでさえも、戦略次第で勝率が変わる。逆にどれだけ強力な手札を持っていようとも、目に付いた物から出して行くだけならちょっと気の利いた戦術でズタズタにされる。
 どちらも多く、強いに越したことはない。手札は形がある。戦略には形はない。だが定石はある。先人達の積み上げた道がある。
 そしてまた、それをひっくり返すための裏道も。
 結局のところ、最も重要なのは相手の戦略をひっくり返せるだけのそれと、次いでその戦略を構成するのに必要最小限の手札。
 そのぎりぎりのライン、紙一重で勝ちを拾うのが美しい。そう思う。
 だから。
「背徳者にしてさんがい三界のあるじ主
 父を殺し児を喰らい いかづち怒槌を統べる者」
 早口に俺はしゅ呪を唱えだす。
「光の奔流 虚無と混沌の狭間
 せかいじゅ世界樹の言の葉を鍵と成す!
 門は開けり 新しき枝よ天を指せ……」
 泪が鼻に到達して声を歪ませてしまう前に唱え終えなくてはならなかったから。
「…………Chronos―――― Blade――――!!」
 解放印が空間を穿ち、たった一柱の優しい神が観た夢を描き出す。求めるのは、ほんのちっぽけな――――心を焦がしたあの出会い。
 血を吸って、一部ではあるが元の姿を形成し始める綿津見刃。その刃渡りはすでに一メートルを超えようとしている。封印を施していたヒヒイロカネはすでに刃の役割を終え、ぱりぱりと音を立てて剥がれ落ちた。
「喰いたいなら喰わせてやるよ。たっぷりと。
 その代わり――――今度は俺も連れて行け!!」
 なおも脈動を続けるその刃。ためらうことなく、心臓を求めて胸の中身へと抉りこむ。
 しぶく鮮血。真紅の視界。滑るようにして夢の世界へ合わされてゆく意識のピント。それらを最期の道連れに――――
 歪んだ空間が再生するその瞬間、生じた余波が俺という存在をこの世界から抹消した。

 刃に意味はない。もっと言えば刀自体必要としない。
 唯、想いだけが人を殺す。

 唯人が、ただ人であるというだけで。其れに残されるのは唯の可能性。ささくれる神肉に引き毟られる仙骨
ああ
これじゃ
融けて
流れて

 ………………………………

 ……本当に一つのことしか考えられないあたまをしている。あれだけのもやもやがもう消え去ってしまった。

「あんたはあんなことをしておいて何も思わないって言うのか!」
「あれがしたことはあれの意思だ。拒否することはいくらでも出来ただろうさ。
 お前は何も分かっていない。それでもお前はあれの親友を名乗るのか?」
「僕が……僕達が望んだのは、こんなことじゃ」
「結局虚空華の願いはあれが叶えることになるのだろうな。
 全く……千年もかけてこのざまか。奴はちっとも変わってはいなかったということか」

「赤いセロハンって何色だと思う?」

「それが分かれば、俺のことも理解できる。言っておくが、赤は不正解」

「大ヒントだ。色って言うのは物体の光の反射によって認識されるものだよな。だったら?
 ヒントはここまで」

 前から、横から、後ろから。刻一刻と場所を変えながら反響するように声が響く。まるであいつが何人もいるかのように時には重なり、時には別れ、俺を取り囲みながら語りかける。

 それはおかしい。あの記憶が正しければ供花が死んだ時点で生き残りは二人いたはずだ。一人は虚空華としても後の一人はどうなったのか。やっぱりその後死んだのか。あるいは。

「あんたに関しておかしいと思ったことはいくつかあったんだ。
 まず、異常に存在感がないこと。異常なまでに勘がいいと自負している俺の背後を何度も取れるってのがどうしても引っかかった。それは多分、俺の能力と考え合わせたらこう推測するしかないと思った。何らかの理由で在覚で捉えられないほど存在因子が欠落してしまっているってな。そうでもない限りこの地上に存在するものを俺が認識出来ないはずはないんだから。
 でももう一つの条件を考え合わせたら良く分からなくなった。あんたは供花が見えてたんだ。あいつはほとんど意思力が弱体化しちまってて俺の精神を媒介にしないと世界として認識してもらえないほどになってた。俺の精神の中に住み着いてる多重人格が幻覚として投影されてるようなもんだったから、普通の幽霊とは違って俺にしか見えるはずがなかったんだよ。それをあんたはいともあっさりと認識した。混沌還元寸前の霞みたいな精神持ってる奴の芸じゃないだろ、他人の意識に潜伏して介入している精神体を見つけて引っ張り出して会話するなんてのは。
 完璧に混乱したね。こいつは存在してるのかしてないのか。それで最後のヒントを思い出したんだ」
 沈黙を保ったまま、奴の瞳は揺るがない。
「『赤いセロハン』。物体は可視領域の光をその表面で吸収しきれずに反射した色が認識される。つまり物体の色は光を跳ね返すことによって初めて『赤』とか名前を獲得する。だったらセロハンはどうなんだ?いや別にセロハンに限ったことじゃない、ガラスだってなんだって光を透過させてしまう透明な物体はどうなる?『赤いセロハン』は『赤い光』だけを透過させているから『赤く見える』が、表面で反射しているわけじゃないから『赤い色』はしていない。
 あんたはそれと逆なんだ」
「『ここに存在』していないように感じるけれど世界に干渉することが出来るから、な」
「何が目的だ?」
 静かに静かに、俺は奴に問いかける。
 もう恐れることは無いのだ。奴の手札は読めた。勝負を決めるのは単純に互いの戦略だけ。
 ……さあ。どう戦う?高屋敷?
「お前は人間じゃない。生き物ですらない。それどころか地球上にあるべき物質で形作られた肉体を持っていない。
 ……お前は、この世界の存在じゃない」

 ……ぱく。ぱく。……んっぐ。
 んごふ。
 …………ぱく。むぐむぐ……ごくり。
 んごふ。んごふ。……んごふ。
 ………………もぐ。
 んごふんごふんごふ。もが。
「うううう……」
 んごふ。という音が聞こえるたびに、山と積まれたあんまんが一瞬にして消え失せる。
 まるで咀嚼という言葉がこの世に存在しないかのようなその食べっぷり。見ているだけで胃腸が悲鳴を上げていた。
(つーか丸呑みかよ……蛇じゃあるまいし)
 ちゃらり、と胸元で揺れるペンダントに向かって、俺は愚痴のようなため息を吐きかけた。
 大体八センチ位の銀色のタツノオトシゴ。縮んだ応龍はこんな情けない姿になってしまったというわけだ。
(本当……妙な縁があるもんだよな)

「……ということはあんたが徹頭徹尾原因だったんだな!?」
「んー。まあそういうことになるかもしんないね」
 いともあっさりと、クソすっとぼけた異世界人の教師は答えてきた。
「何でこんなことしてんだよ!理由を言え理由を!今の話がほんとならあんたが関わる必要なんか何一つ無かったじゃねえか!」
「だって暇だったからな」
 さらりと。
 再び間髪いれずに返してきた答えに虚を衝かれ、それまでの勢いをなくしてしまう。
「考えてみろよ?こんなにすげぇ力を持っているってのに、それを使う機会なんざここには無かったんだぜ?
 これでも出来るだけ良心的に、世界に干渉しないように普通に普通に生きてきたんだし。たまにゃ常識外の出来事に首突っ込んで自分の能力をフルに発揮したいって思ってもいいとは思わんかね」
 言いながら、大仰に手を振って身を翻す。俺から背を向けて顔が見えなくなったところで、
「……出来ることが無かったんだよ、俺には」
 そう、つぶやいた。
 ……同じだ。
 同じじゃないか、俺と。もてあましていたその能力を使える場所を探していたんじゃないか。

 そういうことだったなんてな……
「何がおかしい?」
「決めたよ、俺も」
「何を」
「あんたを手伝う」
 一拍おいて。
「…ハァ!?」
 高屋敷の素っ頓狂な悲鳴が響き渡った。これを聞けただけでもこの発言の価値はあったなと思いつつ、
「俺も暇してんだよ。混ぜろやオラ」
「いやそんなチンピラみたいに言われても」
「ちょうどいいんだよ。あの阿呆も成仏しちまったからこれを使っても誰からも文句が来ないだろうしな」
 綿津見刃を掲げて見せる。
「常識外の力としちゃ十分だろ?」
 飽き飽きしていた日常の意味。
 味わい尽くした非日常の意味。
 損得勘定だけで動いていたのは何のためだったか。
 ただひとつ必要としたのはなんだったか。
 そんなもんは、もうどーでもいい。
 久しぶりに高揚する気持ちが向いている方向へ向かって進む。いつだってそうだった。やりたくないことは受け流して、やりたいことを探していた。
 そして、久しぶりに、本当に久しぶりに、やりたいことが見つかったって、それだけのことなんだ。
 だから密かに日本から離れることを決意した。自分の世界を守るため、自分の居心地の良かった居場所を捨てる。人を殺すためだけの生き方を選んだ俺の、それが最後の責任の取り方だ。
「……そうかもしれないけど」
 困った様に眉根を寄せて高屋敷が指を指す。
 俺の背後に。
「そうでもないかも」
「んあ?」
 そしてまた、一瞬の困惑が運命を決めた。
 振り仰ぐ。満天の星空よりも近いところに、見慣れたものが存在していた。
「って、う、んにゃぁー!?」
「とぉーしぃーごおーー♪」
 もはや物理法則になど縛られていないはずの霊体が、重力加速度を身に纏って突進してくる。その衝突したときの衝撃で――――物理的なものではなく精神的な――――俺はまたもや意識を失った。

 ……おそらく。次に目が覚めたときは、きっと良い気分だろうと確信しながら――――。