初めは銃身。
 次は目標。最後に肉体。段階を踏んで繋げていく。真の意味でこの道具を使いこなすためには、絶対に必要な手順。
 道具を体の延長にするのではなく、自分を道具の一部に置き換える。そうすることでたったひとつ、求められる結果を導くだけの機械に変わる。何も考えない、何も感じない、そんなものに。
 今必要なのはその役目だけだから。
 引き絞られていくのは意識。三点で繋がれた最短距離を、弓の弦のようにぎりぎりまで張り詰めさせる。目標、銃身、肉体……頭の中で描いたようにその軌跡をちっぽけな弾丸が追いさえすれば、俺の望みは果たされる。
 後が無いことは分かっている。これが最後の銃弾だ。当たろうが外れようが、どちらにしても全てを終わらせてくれる。最後の希望か絶望の使者か、確かめる術は無論無い。
 ほんの少し、指を引き攣らせた。
 ぱうん、
 軽い反動と共に空気の破裂が耳を打つ。集中したため虹彩が引き締められ狭くなっていた視界では、飛び出した弾丸の行方を追うことは出来なかった。
 だが。
(結果なんてすぐに分かる……)
 緊張し過ぎた筋肉をいたわるように、静かに目を閉じて息を吐く。じわりと血が巡り、涙がまぶたを潤すのを感じながら、次に目を開けたときの世界のあるべき姿を思った。
(……どうか……)
 ゆっくりと開ける世界は涙でにじむ。思い通りにならない体がもどかしい。まだ震えが収まらない拳で強引にそれを拭い取って、改めて網膜に焼き付ける景色は……。

 ――――いまだそこに悠然と佇む、とぼけたウサギのぬいぐるみ――――。

「だぁーっちきしょーーーー!!」
 どのばんんっぐ!!
 絶叫と共にカウンターにコルク銃を叩きつける。その轟音に驚いたか、カウンターの横手で寝ていたトラ猫が飛び上がって顔面を引っ掻き回してくれた。
「だがちゃがああぁっ!!」
 またも絶叫を上げる俺。ふにぃぃ、などと怯えながら駆け去ってゆくトラ猫。彼(彼女?)にしてみれば俺は安眠妨害の対象でしかなかったに違いないと思うと、結構な自己嫌悪に陥りそうである。
「……くそう」
 何とはなしに引っかかれた部分を撫で回してみる。幸い流血はしていないようだが。
「二千円も注ぎ込んでキャラメルひとつ取れねえってどういうことよ。代わりに石でも詰めてあるんじゃないのか実は」
 悪態をつきながら射的屋を後にする。二千円の対価は悪質にも多量のフラストレーション。これだからテキ屋はやくざな商売だと言われるのだ。多分。
「……でも寅さんって儲かってたのかな」
 鎌倉は江ノ島の一角。潮の香りが吹き付けるみやげ物街道のど真ん中で、俺は降ってわいた疑問を解決することが出来ずにいた――――。

 江ノ島には猫が多い。
 そしてそのほぼ全てが元捨て猫の野良猫である。とはいえ観光客や現地の人間たちから養ってもらっているから、どっちかといえば「島の猫」という感じではあるのだが。
 そういう事情で彼らは人馴れしまくってしまっているため、島のあちこちで無防備に姿をさらす。本当にどこにでもいる。先ほどのように土産物屋や射的屋の中はもちろん、我が物顔に道をのし歩いていたり、植え込みの中で涼んでいたり、神社の賽銭箱の横で手足を放り出してくつろいでいたり、巫女さんのひざの上で丸くなっていたりする(このときほど切実に『猫になりてぇ……』と思ったことは過去に例が無い)。
 そのどれもが触っても逃げない。餌をもらえようがもらえまいが関係なしに触らせてくれる。あごを撫でようが脇腹を掻こうが尻尾をくすぐろうがお構いなしである。
 ここのところは俺にとって至福の時間であった。
 もしかしたら疲れきってしまっていて反応する気力が無いのかも知れないが。
 江ノ島神社に参拝するための石段の途中。道の脇に作られたちょっとした植え込みに隠れていた猫をさんざんじゃらした後のことであった。
 別に直接高屋敷の家に向かってもいいのだが、約束の時間まではまだかなりあった。とりあえず観光客向けの店で時間をつぶしていたのだが、せっかくここまで来たのだから神社に参拝してみようと思ったのだ。
ブービートラップに引っかかってんじゃねえよ俺も……」
 少し毛のつやが悪い黒猫を解放すると案内板に沿って再び石段を登る。
 ここに来るまでにかなりの脱落者が出た。和磨は途中長谷駅で降りて大仏を見に行ったときに(改札がないのは俺たち全員にとって結構なカルチャーショックだった)、何故か外国製のナイフや模擬刀の品揃えが良い土産物屋に吸い込まれて出てこなくなったし、道心も大仏を見た帰り、売店の横で見つけた野生のリスに「餌をやらないで下さい」の張り紙を無視して餌をやったため売店のオヤジに捕まり、最後に残った藍もちょっと目を放した隙に「江ノ島水族館は日本で唯一くらげの飼育に成功したんだよ」と置き手紙を残して走り去っていった。
 鎌倉の魔力恐るべし。地味なものしか無いくせに確実に俺達の嗜好を捉えてくるとは。
「指定された時間にはちゃんと帰って来いよ。俺一人しか待ち合わせ場所にいなかったら全部無かったことにして逃げるからな」
 一人でぶつぶつ愚痴をこぼしながら林の小道をふらふらと三箇所目の宮へ足を向ける。
 島の中にある辺津宮中津宮、奥津宮の三つを総称して江ノ島神社と呼び、それぞれには海の守護神である女神「たぎつひめのみこと田寸津比売命」「いちきしまひめのみこと市寸島比売命」「たぎりひめのみこと多紀理比売命」が祀られているのだ。
 とパンフレットには書いてあるのだがどうでもいいと言うか興味がないと言うか。はっきり言ってこのご時世に神様の名前なんて言われても、どの位偉いのかありがたいのかがさっぱりわからない。真剣に手を合わせるのは神道の信者かお年寄りか受験生か重病人か、信心深いか切羽詰ってるかのどっちかに分類される奴らだけである。
 我ながら罰当たり極まりない事を考えながら賽銭いれてお参りを終える。これで何かご利益があったら逆に怖い。
 当面の目的を達成してしまってまた暇になる。さて、さっさと家に向かうか、それとも時間があるならもうちょっとその辺に足を伸ばしてみようか、と僅かに逡巡する。
 意味もなく立ち止まってしまった。
 立ち止まってしまったからには何かきっかけがなければ歩き出せない。例えばそれは時間の経過だったり、ちょっとした景色の変化だったり。何か他に意味のあることがあれば、それでいい。
 だが、今の俺には何もないのだ。
 一番近くにあるのは奥津宮の横にあるちっぽけな「わたつみのみや龍宮」。
 そこにはあの夢で見た中華風幽霊がふらふらと宙に浮いていた。
「……………………。」
 ちょうど社の少し上あたりで、何もない空に腰掛けてぷらぷらと足を振っている。赤と白の目の覚めるような鮮やかなコントラストの服に、どう見ても邪魔にしかなりそうもない飾りらしき紐があちこちに。
 どう見ても間違いなかった。
 あまりの不意打ちにたっぷり数十秒間は固まってから、ようやく脳味噌が重い腰を上げた。
 ……いやしかし、どうしたものやら。
 実はこういうときに取れるリアクションというものは大してパターンは多くない。大別すれば関わろうとするか無視するか、後はその二つの混ぜ具合の比率の問題だ。
 それで大体民間伝承によれば、関わったが最後取り憑かれてひどい目にあうか、気に入られてトラブルに巻き込まれるか、前世の因縁かなんかに目覚めさせられて人知れずこれまた吸血鬼あたりと戦わされるかのどれかがもれなくプレゼント、どれが当たるかは賞品の発送を以って代えさせていただきますということになるのが関の山である。
 かといって。こういう事態に遭遇するような奴らというものは、それを無視して通り過ぎられるほど人生に満足しているわけではないのだ。
 本音を言えば俺とてさっさと家に直行したいところではあるのだが、せっかくの珍しいことこの上ない怪奇現象であることだし、何らかのちょっかいはかけたい。しかして、そのおかげで夜寝るときにラップ音と金縛り、というのも避けたい。
 フグは食いたし命は惜しし。いやもう、どうしたものやら。
「……まあ、近寄ってみても声さえかけなきゃ大丈夫だよな。多分」
 とりあえず、ということでノコノコと歩いていくと社の下の石に腰掛けて、中華風幽霊の見ているほうを眺めやる。
 空は紅に染まり、斜陽が瞼を貫いてくる。その感触を心地よい思いで受け止めながら、ふらりと思考をめぐらせた。
 魂。
 果たしてそんなものが実在するだろうか。もし存在したとしても、人間の魂などというものは肉体と言う名の器に満たされた水に過ぎず、器が欠ければ流れ落ち、形を変えればそれに従い、そしてもちろん、それのみでは形を保ってはいられない。
 だから魂は受け継がれない。連鎖するのは物体だけで、エネルギーではないのだから。「生まれ変わり」「転生」と呼ばれるような現象はただ単にある人物と非常に似通った器を持つ他人が現れたというだけだ。
 いや、下手をすればヒトに魂は無く、ありもしない水を器の中に見出しているに過ぎないのかも知れない。器から流れ落ちる水はそこに存在しない。永い時の中で生み出された錯覚が、間違った認識が、無意味な肉の振る舞いに特別な意味を与えてしまった。蛋白質、炭水化物、脂肪、水、その他様々な無機物質の集まり程度のものに意味を求めてはならないだろう。
 要するに幽霊なんざ存在しないのだ。
「ねーねー」
 だからこうして話しかけてくる声も俺の永い時の中で生み出してしまった錯覚なのだ。
「ねーねー、ねーったらねー」
 …………
「何で無視すんのー。なんか考え事でもしてんのー?考えたって無駄なことってあると思うよー。それよりさー、このごろ珍しいことがあったんだよー」
 ええい必死に自己暗示をかけているのに横から集中を乱すんじゃねえ!
 だが目を閉じて頭を抱えようとも、俺の頭上でひらひらと飛び回る、中華風の幽霊にしか見えない後ろの景色が透ける人影は消えてなくなってはくれなかった。やっぱ都合よく幻覚だったり夢だったりはしてくれないのだろうか。
「ああはいはい、わかったよ。話聞いてやるからいくらでも話せやコンチキショーが」
 さすがに根負けして相手をしてしまう俺。するととたんにそいつは破顔して、
「うわぁ……やっと相手してくれたよう……」
 などと言う。
 どうにもスローペースで短気な俺としてはどうにもムカつく。
「それで?いったい何なんだ?」
「あのー。その前にひとつ」
「なんだよ」
 ぴっ。とばかりに指を立ててそれをへにょりとこちらに倒し、
「あなたって、何?」
 幽霊にそんなこと聞かれる筋合いはないと思う。
 不機嫌さを隠そうともしないままにらみつけていたら俺の心を察したか、
「ああ、あの、そういう意味じゃなくて、名前。名前」
 パタパタと小刻みに手を振ってフォローに回ってきた。
「……辰野。辰野俊悟」
「ふーん。俊悟」
 指差して確認してくる。意外にも名前でからかわれることはなかった。こいつは絶対そういうタイプだと思ったのだが。
「あたしはね、供花」
「ほう」
 …………
「………………」
「……………………」
「ええと……」
「ん?」
「こういうときは普通お互いに自己紹介するものだと思うんだけど」
「やだ」
 即答。
「な、なんでぇ!?」
 面食らったようにばたばたと手足を振り回して抗議してくる中華風幽霊。無意味に長い飾り紐のような服の一部がこれまたばたばた風に翻る。
 なんか絡み付いてきそうなそれを疎ましげに手で振り払いつつ、
「うぅるせえな。生憎俺はお前如きに取り憑かれるほどやわな根性持ち合わせてないんだよ」
「なに言ってんのぉ!?」
「どうせ言葉巧みにこっちの情報引き出していろいろ悪さしようってんだろ。そうはいくかっつの」
「そんなキャッチセールスかマルチ商法みたいなことはしないって」
 なんかずいぶんと世間にすれた返事が返ってきたような気が。
「っていうかあなた超常現象体験してるのにずいぶん冷静だよね」
「いーじゃん」
「驚かし甲斐ってものが無いじゃないの」
「さっきお前見つけたときに十年分は驚いたから。それが話しかけてきたからって今更驚けない」
「そんな私が見てないところで驚かれても嬉しくないー」
「それよりお前はいつの人間なんだ」
「なんか変?」
「いや、変じゃないから変なわけで」
「それは結局変なのそうでないの」
「どう見ても近代人ぽく無いのに会話が違和感無く成立してるのは何でか、ってことで」
「どゆこと?」
「なんで幽霊がマルチ商法知ってるんだと聞いてんだ」
「普通に生活してればそのくらい一般常識でしょ」
「生活してないだろ幽霊なんだから。というかお前全然幽霊っぽくないな」
「ぴちぴちです」
 などと言いつつ扇情的なポーズ(前後の文脈から推察)。ぴちぴちの幽霊とは一体。
 しかし、単に世間話がしたかっただけなのか。
 さっさと背を向けながら、
「じゃーな。とても非科学的な珍しい経験をありがとう。多分もう二度と会わないだろうけどいつかまた会える日を楽しみにしてるからなー」
 早口で別れの捨て台詞を吐きつつ境内から脱出する。
 ぎゃーぎゃー喚いている幽霊の罵声を聞き流しつつ、そのまま走って龍恋の鐘がある丘まで逃げて後ろを振り返ったが、どうやら後ろについて来ているという事は無さそうだった。
「……そうか。考えてみれば神社の上に居たってことは守り神か神社に未練がある自縛霊かだもんな。そう簡単に追っかけてきやしないか」
 安心するととたんに本来の目的を思い出した。
「民家のある区域から随分と離れちまったな。面倒なこった」
 龍恋の鐘。五頭竜が天女に求婚したものの人食いを理由に断られ改心した伝説を由縁にして、縁結びの名所となっている海が見える丘の一角。愛を誓い合いながら鐘を突き、誓いの品として南京錠を柵にかけ、愛し合う心が変わらぬように「鍵をかける」。そのため鐘の周りに立てられた柵には南京錠が鈴生りだ。
 言葉遊びを理由にその本来の役目を奪われた道具達。それを背後に、俺は住宅地帯へ歩き出す。
 やっぱりこれも、だからなんだというわけでもない。

「いただきます!!」
『いただきます!!!!』
 胸元で両の掌を叩き付けんばかりに合わせ、飢えた獣のように四人の男が高らかと吼える。
 食卓に並ぶは江ノ島名産の魚介類をふんだんに使った色とりどりの料理の数々。
 鯵のたたきに鰯の刺身。
 サザエの刺身にイカ素麺。
 釜揚げシラスにさつま揚げ。
 そしてもちろん、純白に輝く至高の食用宝石、日本人の主食たるご飯が一膳。
 横に添えられている親子丼の肉をサザエに代えた江ノ島丼というのがわりと正体不明。
 高屋敷家の大掃除を敢行した(ことの詳細はもう述べたくない)俺たちへのささやかなもてなしの宴である。
 しかし、二世帯住宅でもなく奥さんも見当たらなかったし、こいつら全部高屋敷の手作りなのかも。
 とにもかくにも、長時間の強制労働によって体力を消耗していた俺たちは箸を割る暇ももどかしく料理に喰らいつこうとしていたのだが。
「待て!」
 茶碗片手に鯵のたたきを箸つき合わせて奪い合っていた俺たちを高屋敷の叫びが遮った。
「……なんのつもりだ?今の俺たちに声をかけるのなら、命の覚悟は済んでいるのだろうな」
 ゆぅらり、そんな音が聞こえるような首の動きで半分隠れた白目がこの家の主をねめつける。ようやく勝ち取った鯵のたたきがその左手の箸に燦然と輝くそのままに。
 滅多にないことだが道心が殺気立っている。それだけにこの無表情な男の怒りは凄まじい。
 そんな気配を感じさせることもなく、高屋敷は間抜けなほどに落ち着いたままで、
「大問題だ。醤油がない」
 何か自慢げに言い放つ。
 言われて気付いてよくよく見れば、そこには醤油無しで食べられるものは一つ足りとて有りはしないのだ。ただひたすらにご飯を貪ろうと言うのなら話は別だが。
「…………どうするんだよ」
「髪の毛を塩酸で溶かしてアミノ酸溶液を作り塩とカラメルで細工すれば醤油のようなものが出来るが」
「なんか聞くからに不味そうだねそれ」
「仕方ない。戦後の技術だからな」
「そもそもどこから髪の毛調達する気なのかね?」
「あの、その言い振りだと塩酸なら持ち歩いているってこと?」
 卓のあっちとこっちで物騒な話が進行している。
「真面目な話、隣り近所辺りから借りてくればいいだろ」
 俺の進言に高屋敷はポーズを変えもせず、
「それは一番最初にやった。そうしたらどうしたことだか隣近所どころか向かいやはす向かい、挙句の果てにはこの辺一帯の民家で醤油を貸してくれる家が一軒もなかったんだ」
「普段どういう近所付き合いしてるんだ」

 ふと見た窓の外。一匹の虎猫が前足を二本、よいしょよいしょとばかりに使ってごろごろと樽を転がしていく。
 あらまあ、お利巧ね、限り無く可愛いその姿を路行く人々が微笑みと共に見送っている。よいしょ、よいしょ、その猫が石畳の道を過ぎ、岩屋へ続く階段を下りていくまでは。
 一瞬の後、突如としてけたたましいと言うには少々鈍すぎる騒音が響き渡ると、悲鳴を上げながら通行人が道を右往左往し始めた。
 何処までも突拍子も無く現実感に欠けるその光景に、あろうことか俺はそれを止めることを思いつくことが出来なかった。
 ……その樽は、醤油樽だった。
「醤油猫だ」
『はい?』
 顔を見合わせ、四人の声が唱和した。
「イヤだから、醤油猫」
「……それって醤油色してる猫?」
「どんな猫なんだよそれは」
「哀れにも醤油樽の中に落ちてしまった醤油漬けの猫なのだろうな」
「そいつぁ可哀想だわなー」
 口々に適当なことを言ってくる四人。
「違う。なんか知らんが醤油樽を前足で転がして運ぶ利巧極まりない猫のことだ」
「その猫がどうしたって?」
「今居たんだよ。窓の外に」
『…………!?』
 俺の言葉に場の空気は一気に沸点に達した。
「待て。それはまさか」
「どう考えてもこの状況に関わってるよ!」
「つーことは、その猫とっ捕まえれば醤油が手に入るって事か?」
「追え!なんとしても捕らえろ!」
 餓狼の面差しを刻み込んで道心が吼える。椅子を蹴倒し窓を開け放ち、猫じみたしなやかさで窓をすり抜け街路を駆け抜けていく。あっけに取られる暇も無くそれを追う和磨と高屋敷。
「俊悟!僕らも行こう!」
 もたもたしていた藍が散らかった家具を片付けながら呼ぶ。
「あー俺はいいよ」
「どうして!?」
「最初に醤油を手に入れて帰ってきた奴を襲うから」
 どげつーーっ!!
 とって返してきた道心の足刀が俺のこめかみを抉り倒した。
 ……地獄耳め。

 おりしも外は先行きを暗示するかのようなどんより雲に覆われ始めていた。俺達はばらばらになって醤油猫をあの後目撃している人物はいないか聞き込みをすると共に足取りを追っていた。

「あの醤油猫はお前か」
「醤油猫って」

「岩屋に友達が取り残されてるんでしょ。助けてあげなくちゃ」
「だから二重遭難したらどうすんだっての」
「取り残されてる人のうち一人はさっき出てった徹さんだけど」
「三重遭難させる気なのかいっ!」
「だーいじょーぶだよー。これ使ってこれ」
 言って虚空から取り出したのはあの御神体である。たぶん空間を繋げたかなんかしたんだろう。よくわからんが。
「応龍は水神と言われてたから、水を操る事が出来るようになったんだよ。
 これにはまだ結構神通力が残っててさ、これを持ってれば雨に濡れないで済むというすんぽー」
「そんなもんが呼び寄せられるなら同じように一人づつ助けてやればいいだろが?」
「………………」
 一瞬と言わず固まる供花。
「……これは私と結構縁が深いから力が届きやすいみたいなんだけど、あんまり関係の無いものは駄目なんじゃないかな。無理だったよ」
 図星をさされて焦っていたのではなく試していたようである。
 どうやら何故かは知らないが、俺に付いて来てもらいたいらしい。
 はっきり言って面倒くさいのだが。
「だから行かない。じゃーな」
「ああっ!またぁ!?」
 とっとと傘を翻して高屋敷邸へ向かおうとする俺を、
 ずぐううおおぉぉぉ……
「?」
 地鳴りのような振動は、
 ぞっぱーーーーんんん!!
 高波を連れて海へ引きずり込んだ。

 雨は嫌いではなかった。
 降り注ぐ雨が地面を叩く音も、道行く人が差す傘を叩く音も、水たまりに落ちる滴が波紋を広げる音も、踏まれた水たまりが飛沫を撒き散らす音も、すべてが心を潤してくれる。
 ほんの少し涼やかな空気の中を歩くときが好きだ。なにもしがらみがなければ傘を放り出して、雨に打たれて茫洋とするのもいいかもしれない。
 だが。
「……というか雨はよけられても風には関係ないじゃんかーーーー!!」
 叫びを横殴りの豪雨がかき消していくような天気を好きだと言い張れるほどにはちょっと。

「まあこれで文句はないだろ。ほれ」
 とりあえず、結構役に立ったと言えなくもない綿津見刃を供花に返す。
「へ?」
 ところが彼女はなぜか間抜けな顔をして目をぱちくりさせてくる。元が子供っぽいから相応のしぐさだとも言えるが。
「な、なんで私に渡すの?」
「何でも何もお前のだろ」
「ええー?せっかくこんな凄い物手に入れたのに、なんであっさり手放すの?
 おかしいよ!」
「いくら凄くても使い道が無けりゃ意味がないだろ」
「いくらでもあるじゃん使い道なんて!
 急な雨の日でも安心だし、植木の水やりなんかも楽々だし、のどが乾いてもすぐ水が出せるんだよ!
 日常生活の必需品と言ったっていいぐらいじゃん!」
「……街中でこんなもん出して水出したり飲んだり弾いたりしてたら可及的速やかに警察に通報されると思うぞ……」
 それにつけても安っぽい使い方の御神体である。
「そんなことないもんー!」
「うわ聞こえてた!?」
「あ、そうだ、こんな風にね、水を好きな形にすることも出来るんだよ。きっと子供の前でやったら人気者だよー。
 あとね、あとはね、ほらそれを動かすことも出来るんだよこうやってこうやってぇ……」
 なんだか一生懸命自分の御神体のセールスポイントを売り込んで、水で作ったウナギのような物をにょろにょろと一心不乱に空中で躍らせている彼女は、
(不慣れなベビーシッター任されて悪戦苦闘してるみたいだな)
 と、そんな様子を連想させた。
 なんでそんな危険物を人に持たせたがっているのか……
「いらんいらん。じゃあな」
「だからそういうつれない事言わないで〜」

「大丈夫!こんな事もあろうかとこんなところに十徳ナイフが!」
 ぐるぐる巻きに縛り倒されながらも異様に器用に手首を曲げてポケットからナイフを取り出す和磨。
「ただ問題は」
「?」
「両手を使わないと刃が出ない。助けて」
「あーもう。役に立ってねえし」
 情けない気持ちでぼやきながら和磨に近づいていくと。
 にぃやぁぁぁぁぁ…………
 ざわざわした感覚に被さるように、赤ん坊の泣き声のような音がした。
 振り向く。高さ二mにも満たない狭い洞窟の中にあったのは場違いにも猫の大群。
「……何だよお前ら」
 不穏な気配を感じ、入り口で渡された蝋燭の灯りを床に安置した。

「自らの血を捧げることと引き換えに一刻、二時間の間捧げた血に百倍する質量の水を操ることが出来る。それが契約」
「大して役に立たないんじゃないのかそんなの!?」
 和磨は芋虫のように後退りながら悲鳴を上げる。
「分かってないな。
 リスクとメリットが等価であり、完全に手札が定められているほうが戦略を扱う楽しみが生まれるってものだ。力押しだけで全部片が付くんだったら力自慢の馬鹿が一番偉い世の中になってる。
 つまらないだろ、そんなのは」
 言うと同時に右手の綿津見の刃に意識を集中する。間を置かず、
 ぎゅがりゅっっ!
 罅の入ったガラス瓶を捻り砕くような音と感触を返して、目の前の空間に煌めく光とひりつく様な冷気が現れる。
 ダイアモンドダスト。
 致命的な美しさを持つ極寒の芸術がそこに鎮座した。
 目と鼻の先に凍て付かんばかりの空気を叩きつけられ、寒さが苦手な猫達はみゃーみゃー言いながら日の当たる場所を求めて散っていく。生暖かい空気が渦を巻いて金剛石の名をもつ氷の粒を舞い躍らせる頃には、あれだけあった猫の影は既に岩屋の中にない。
「切っ先を円周上に、中心点を猫の集団の内部に置いた球体の中の空間に存在する契約出来る限りの水分子の分子運動を急激に低下させるように命じた。液体になった水だったらそんなに多くは操れないだろうけど、空気中の水蒸気に使うんだったらご覧の通り。
 ……ところで、何で縛られてるんだおまえは」
 声も出ない様子の和磨をとりあえず無視して問い詰める。今度こそこいつを戒めるロープを解いてやらなくては……
「…………」
 影。
 さっき手放してその辺に置いた蝋燭から放たれる光が映し出す影が、一つ多い。
 一つは和磨。一つは俺。そしてその後ろから伸びる何者か――――
「だっらああっ!!」
 身を沈めて放った槍のような蹴りが鳩尾を食い破る。吹っ飛びかかる相手の顔面を両手を突き放す勢いで体を跳ね起こし、肘で叩き落とす。後頭部を打ちすえて地べたを舐めるそいつの喉元に止めの膝落としを――――
「あれ?」
「くっ!」
 肝心なところで和磨が発した声のせいでリズムが狂った。踏み足が距離を間違えたせいでバランスも崩れる。とっさに落下した体を転がして受身を取り、十分に間合いを空けてから立ち上が
「高屋敷」
「な?」
 転がったまま良く見れば、言われた通り俺が殴り倒したのは白衣を着たおっさんだった。いくらなんでもこんなファッションセンスを持った人間が江ノ島に二人以上いるとは考えたくない。
(……そういやあいつ、高屋敷がここに来てるって言ってたな)
 またも気配が薄すぎるのが災いした様である。

「うーむ。それにしても」
「……?」
「随分と可愛らしい幽霊さんだ」
「えー?そうー?」
 なにやら空中でくねくねと身をよじる供花。
「幽霊に粉かけてどうすんだあんた」
「いやなに。これがほんとのプラトニックラブって奴?」
 分かるようで分からんことを。
「いやしかしなるほどな、思った通り……いや、それ以上か」
 にやにやと口元を吊り上げるようにして高屋敷はマッドサイエンティストのように嗤う。蝋燭の光を反射して光る眼鏡が似合いすぎて凄くイヤ。
「何言ってるのかさっぱりわかりゃしないんだが」
「そうか。なら……わかるように説明しようか」
 言って、高屋敷は改めて口を開く。
「一メートル。これは存在するかしないか」
 そんなことを、唐突に。
「…………はあ?」
「言ってみろ。直感でいい」
「……そりゃ……するだろ」
「なぜ?」
「だって俺の身長は確実に一メートルを越えてるだろ。一メートル物差だってあるし」
「厳密に言えばそれは『一メートル』ではなくて『一メートルの物体』だな」
「じゃあ使ってるだろ俺たちは。メートル法をさ。そら寸とか尺の時代もあったけど。
 これなら『一メートル』という概念そのものを指すだろ?」
「それでも示されているのは『物体の長さの基準』であり『一メートル』という独立した概念ではありえないな」
「……何が言いたいんだかわからん」
 頭をかきむしりたいのを何とか我慢する。こいつと相対している以上、心を乱すのは無駄どころか失策にもなりかねない。
「早い話が『一メートル』というのは棒だの身長だのに依存しなければ存在することの出来ない概念だということだ。それ自体が単独で発生することはありえない。
 ためしに『一メートル以外の要素を持たない物体』を想像してみろ。出来ないから」
「……それで?」
「なら、一メートル物差を見て『一メートルだ』と考えるよりは『物差だ』と考えるほうが正しいだろう?そっちのほうが物の本質なのだから。だけどな……」
 言葉を切ると、悪戯っぽい笑みを浮かべて、
「だがそれは、何であろうと同じことだ」
「なにが?」
「つまり、この世界に存在する何もかも、独立した概念ではありえないということだ」
「????」
 言葉を返すより早く高屋敷は続ける。
「例えば、林檎。確かに林檎は一メートルよりははるかに独立して存在を確立している。
 だが、林檎の実がなるのには、十分な水、豊かな土壌、降り注ぐ日光、適度な環境、そしてそもそも林檎の種が必要になる。
 これだけのものに依存しておいて独立しているとは俺は思えないね。
 大体さっきの太陽光でさえ太陽がなければ発生せず、太陽は銀河がなければ生まれず、銀河はビッグバンが起こらなければ創られえず、ビッグバンでさえ何か条件がそろわなければ起こりはしないだろう。でなかったら人類の歴史の中で一度くらい観測されていてもおかしくないはずだ。
 ……つまり。この世界のものすべて、さっきの一メートルの例と同じように、何かに依存している概念だというわけだ」
 そのへんの哲学書にも書いてあるぞ、と高屋敷は笑う。
「その依存している何か、というのが仏教で言うところのあらやしき阿頼耶識。ヨーロッパで言うとアカシックレコード、どっかのファンタジー小説では精霊なんていうのもその類だな。
 万物の根源……『それがそれであるため』に不可欠な……方向性。
 がんしき眼識、びしき鼻識、じしき耳識、ぜつしき舌識、しんしき身識という五感情報と表層意識に阿頼耶識が組み合わさることによって形成される無意の自我意識……まなしき末那識。
 これが偽りの世界を偽りの認識によって組み替えてゆくファクター。阿頼耶識でしかなかった世界を動かすことの出来る唯一の因子。 
 末那識によって仮構された外界としてのしょしゅ所取はきょもうぶんべつ虚妄分別を持つのうしゅ能取に物質として影響を与えることが出来る。影響を与えられた阿頼耶識はまた次なる末那識を形成し、外界を仮構し、また影響を受ける。周囲に存在する物質の阿頼耶識も転換されていき、それが新しく影響を及ぼす。
 この世界を更新し続けているのは何のことはない、主にヒトの自我ということだ」
「……それで?」
「それでって?」
「その話が俺にどう関わって来るんだよ」
「普通の人間なら五感情報を介さずに外界を認識することは出来ない。だが、お前の自我は五感に頼ることなしに外界を認識する機能を備えている。それもダイレクトに、だ。どういうことか分かるか?
 お前は所取ではなく阿頼耶識を直接感知することが出来るんだ。『眠りと引き換えに世界を捉える』、上っ面だけじゃなく物事の本質を掴むことが出来る、いわば虚妄分別を持ちながら智者に最も近づいたものだろう。
 でなきゃ幽霊なんてそうそう見えるわけないだろう?」
「え?そうなの?」
 急に話を振られても相変わらずのんきな供花の声が、高屋敷の声に慣れた耳には涼やかに響いた。
「それに、これがお前にどう影響を及ぼすか、身を以って十分すぎるほどに知っているはずだがな?」
 挑むような高屋敷の目が。
 少し前の記憶にダブる――――。
――――だってお前、物見つけるのが得意なんだろ?とっ散らかった部屋の中に埋もれたリモコンだの靴下だのを百発百中で探し当てるって聞いたぞ――――
「胡散臭い。」
「ぬな!?」
「と言うか結局何言ってたんだかよくわかんない」
「あれだけ説明してやったのにか!?」
「聞き流しまくりました」
「流し素麺みたいな耳してるな!」
「よく言われるよ」
「言われるのかい!」
「とにかく」
 長台詞を延々と並べ立てて息を切らしている高屋敷。眼鏡はズレるは白衣は乱れるはと滅多にないほど興奮しているのは疑いようもないが。
(……もう少し、読み易い顔色をしててくれればな)
 と、腹の中で考えていることとは違う言葉を紡いでやる。
「なんで供花が俺にだけ見えるのかは分かったから、もうちょっと一般的な単語を使って話してくれなさい」
「…………」
 しばし黙考する。ややあって。
「……お前の髪の毛は妖怪アンテナなんだよな」
「なるほど」
 高屋敷は初めてとても分かりやすい表現を返してくれたのだった。
「って、髪の毛なのか、重要なのは」
「ああ、まさにその通り。今風に言うとお前の髪の毛は毛根が直接脳味噌と神経で繋がっていて、アルファ波を脳が出している時だけ感覚器官として機能する。ただし、それで捉えるのは触覚としてでもなく、視覚としてでもなく……」
「第六感。存在そのものを捉えるってわけか。『在覚』とでも言うのかね?」
「捉える感覚なんだから『捉覚』のほうが合ってるんじゃないか?」
「『そっかく』って言いづらいだろ」
 いや、そんなことはこの際どうでもいいのだった。
「信じらんない。」
「コレだけ話弾ませておいていきなりそれはないんじゃないのか!?」
「論理としちゃ確かに筋は通ってる。でも全部推論に過ぎないしな。証拠も全て状況証拠に過ぎないじゃないですか。アリバイはどうなるんです?」
「何いっとんじゃ、お前……」
 思わず推理小説で追い詰められた諦めの悪い真犯人の常套句を吐いてしまった。
 は!ということはつまり俺が真犯人と言うことではないのか!?
「…………」
 これでは逆に追い詰められたことになってしまう。まずい何とかしなければ。
 後々冷静に考えるとさっぱり意味の分からない焦燥感に駆られてとにかく口を開こうとする。何を言うつもりでもなかった。とにかくこの場を取り繕わなくては得体の知れない何かにどうにかされそうな気がしていた。
 外れたことのない俺の嫌な予感。形はどうあれ「そのとき」も。
「!?」
 目に見えない衝撃は、それでも確実にそこに存在する。いや、それはまるで「存在は、それを認識された瞬間に初めてそこに生まれ出る」というどこかの誰かが唱えたもっともらしい詭弁のような論理に従ったかのように、「今、この瞬間」に発生して俺を吹き飛ばしたと思えた。確認することも叶いはしないその空想をもたらしたのは、
「…………」
 それが起こった「そのとき」を
 いくら後で思い起こしても、
 上下も左右も前後も分からず
 断片的な景色の前後関係も定かでない中
 それだけは確実に最後に見てしまった、
 何かを語りだしそうで何も語らない
 供花の光を映さない瞳だった。

 そして時の流れから完全に独立した一瞬が終わり、俺は冷たい水面に乱暴に着水して意識を溶かした。

 旧い記憶を夢に見ることがある。
 解っている未来に向けて心を急かす。
 それは観る夢を「今」だと思っているから。
 識っている結末を知らないから。
 なら、識らない結末に向けて進む現実は、覚めない悪夢のようなものだろうか?

 ……気がつけばもう昼になっていた。
 見上げる木漏れ日が幼い記憶をくすぐる。もはや形を成さない不定形の印象でしかない何かが心の隅をむずがゆくさせた。けして不快では無いその疼痛を味わいながら半分だけ瞼を見開くと、ほとんどの者は既に身支度をとうに終えていた。
「可愛い娘さんはまだお休みのつもりかな?」
 笑いを含んだ声と共に高みから見下ろす影がまだらの光を遮る。慌てて体を起こすその拍子、もたれかかっていた大木の根に絡みついた飾り帯に足をとられた。
「あうあ!」
 周りから視線が集まるのをはっきりと感じながら、受身も取れずにべちゃりと地面に突っ伏す。
 余計に頭に血が昇る。逸る心を抑えることも出来ずにどうにかじたばた起き上がり、紅潮しているに違いない顔を隠そうとぱたぱた無駄に忙しなく手を動かして乱れた式服を調える。

 「富士から吹く風」。伝説の富士山から吹きつける風を運ぶ洞穴とやらを再現してあっただけだったはずの岩屋の一角は、どういうわけだか本物の地下洞窟になっていましたとさ。
「出来すぎだ馬鹿野郎」
 薄暗い洞窟の中はじめじめとしていて息苦しい。肌と洋服にべっとりとまとわり付く湿気と水気は綿津見の刃を使って取り除くことが出来たものの、吸う息吐く息までに気を回すゆとりはないのだった。
 ごつごつした地肌をさらしてそり立ついかにも手をかけたら崩れ落ちそうな岩壁。そのはるか上に落下して来たであろう隙間が小さく見えていないか、足元に石灰水そのまんまの白い地下水が溜まって湖を成しているかしなければ、こうして濡れた服を乾かすために神経を使わなくても良かっただろうし命は無かっただろう。どちらの認識も余計に自分を苛立たせる役にしか立たない。
 最後の記憶が正しければ叩き落とされたのは確かに「富士から吹く風」。人工洞窟のはずのそれが天然鍾乳洞のようにだだっ広く広がっていると言う事実は理解しにくい。
 以前に見たことのあるバラエティ番組の地下鍾乳洞探検ではその広さはどれくらいだっただろう。
 高屋敷が救助隊を呼んでくれたとは考えにくいし、万が一呼んだとしてもこの天気ではそれこそ四重遭難が待っている。ギネス記録物だ。

 完全な闇の中で
 羽ばたく蝙蝠の気配。
 すかさず綿津見の刃を突き刺し体液を沸騰させる。程よく煮えあがった蝙蝠が水たまりに落ちることでその場所を教えてくれた。
 拾い上げて齧る。身をほぐすとか切り分けるとかしようかとも思ったが、どうにもならないのでそのまま頭から丸齧りする。身が少ない。骨が多くて滋養に欠けるような気がしてならない。昔中華料理屋で食べた鶏の足を思い出す。
 小さいモノたちの気配が怯えの波動を放った。
「何してんだよ。お前達も腹ペコなんだろうが?喰うか喰われるか弱肉強食って奴だ。どうよ、これだけの獲物ならお前ら五十匹満腹にさせてお釣りが来るぜ?」
 光も差さぬ地下洞窟に何の餌があるというのか分からないが、地上から迷い込んだ間抜けな小動物でも餌食にしているんだろう。ちょうど俺のように。

 眠り、起き、眠り、起き、茹でた蝙蝠を喰らって綿津見の刃で蒸留した水をすする。その場で一回転したら確実にそれまで進んでいた方向を見失うと言うのに歩みを止めない。確信できることなど何一つ無いが、それだけ迷う必要も余裕も無いのだから。
 それを後悔してはならないしそれを悲しんでもならない。淋しがる位の感傷は与えてやっても良いかもしれないが。
 綿津見の刃でウォータージェットを作り出し岩壁を撃ちぬくことも出来たが、敢えてそれをしない。それだけの水を操るには致命的な量の血液が必要だということも、下手に岩を崩して落盤を起こさない自信がないから比較的外界に近い地層を探そうとしているという事情もあるが、一番の理由はそんなものではない。
 癪に障るからだ。
 何が悲しくてこんな苦労をさせている張本人の助けを借りなければならないのか。逆に助けを求めればさらにどん底に突き落とされないとも限らないでは無いか。
 既に俺の歩いている道は普通ではありえない獣道に変わり果てている。まともな行き方をしていたのでは目的地に辿り付く筈の無い日陰の道。それをこの期に及んで右側通行しろだの横切る時は手を上げろだの、今までの常識を馬鹿正直に守っていたら絶対に迷う。
 常識を捨てる。倫理観を捨てる。理性も。意識も。感情も。生き残るためには本能以外に必要とされる物はもはや無いのだ。
 闇に潜む何かに魂を捧げて、俺は光を求めるだけの機械に変わった。
 その後のことは、もう思い出せない。