久しぶりに、二人でゆっくり過ごせると思った。
ようやく東の方から仕事を終えて帰ってきた矢先のことだった。上からの命で大陸のほうまで出向くように伝えられ、下ろした荷を再び元通り詰めなおすことになった。
それが妹を怒らせた理由の一つだったし、付随して一緒に出かける約束が果たせなくなってしまったこともそうだっただろう。だが何よりの原因は、妹もそれに同行することを命じられたからだったと、私は推測している。
所詮は宮仕えの身の上で不平を言うことも出来ないが、家族と共にいてそれに甘えることも許されないという環境は、まだ心幼い子供にとってどれだけの不満を与えることになるだろうか。
私だけならまだいい。だがそれを妹にまで押し付けることはないだろうに。
面倒なことになってしまった。そう思った。




それでもまだ、自分の目の届く範囲に私がいるという事実が幾分か慰めになったのか、家を発つ時には妹は笑顔になっていた。
港へ向かう途中で帽子を買ってやったらひどく喜んだ。
安上がりだな、といったら、いいんだもん、といって笑っていた。




船には総勢二百人ばかりが乗っていた。ここまで大所帯なのは初めてだった。
これだけの人数を注ぎ込むとはどうかしている。
そのなかに知った顔を見つけて少し憂鬱になる。ここまできて付き合うことになるとは考えていなかった。妹がそっちを向いて少し顔を和らげ、あいつは愛想を出してこちらに手を振ってきた。
これから三日余りはこいつと一緒かと思うと
大陸が急に遠ざかったように感じた。







…………白い粉末を匙ですくって陶製の容器に入れる。慎重に量を調節したら、そこに熱せられた赤銅色の水溶液を流し込む。粉末が溶けていく様は、さしずめ赤い海の底でほんの少しだけ陽炎が舞うようにも見える。
くるくると匙が踊る。海に渦潮を巻き起こしながら、最後の仕上げにコロイド溶液をたらしこんだ。たちまちマーブル模様に汚れていく海原。それらが均一に混ざりこむのを確認して、ようやく俺は匙を容器から引き出した。
出来上がったものを口元に近づけてにおいを確認する。
……薫り高い、アールグレイ
「よし、成功」
一人ごちると俺はミルクティーをうぐうぐと飲み込む。香りがミルクにも砂糖にも殺されていない素晴らしい結果である。紅茶マニアに知れたらぶっ飛ばされそうな作り方だけど。
別に理科の実験でもないというのにこういう表現をしてしまうのはなぜなんだろうか。
朝食後の一杯を非常に美味しく頂き、食卓の上を軽く片付ける。別にたいした物が置いてあるわけではないので使い終わった食器を流しに置くぐらいだが。マーガリンや砂糖壺はどうせ親父か母さんが使うだろうし放って置くことにして、あらかじめ用意して置いたスポーツバッグを肩に引っかける。
「それじゃ、ちょっと行ってくるから。今日は帰って来ないかも」
音がないと寂しいのでつけていたテレビの日曜討論の右上にくっついていたデジタルな時間表示が五時を告げるのを背景に、リビングに隣接した寝室で布団に転がっているはずの両親に声をかけて、一瞬で辿り付く玄関に走る。予想通り、はいよー、とか馬に乗っているかのような返事が帰ってくるのを背中で聞き流してマンションから抜け出す。
実は今日も高屋敷から片づけを手伝うように言いつかっているが、出かける用事はそれではない。と言うか手伝うつもりはない。
いつもどおりの電車に乗っていつもどおりの通学コースをなぞる。ある駅で定期を使って途中下車。
向かう先は、藍の家だ。




十畳敷きの寮の一室。置かれているのは質素な最低限の家具。BGM代わりなのか、ラジオが延々と流れ続けている。
そこでは部屋の中心に藍が座って全長40?ほどのサトコちゃん貯金箱をいじりまわしていた。しばらく記憶を探るかのようにあちこち触ってみるが、そのうち諦めかけた様子で床にサトコを置く。
と、そこら辺まで見物したところで声をかけた。
「まだ来てないみたいだな」
「うん?」
「時間にルーズだよな」
 言いながら勝手にその辺に座り込む。勝手知ったる他人の家というか、お前のものは俺のものという奴である。
「まあ、こっちも準備できてないし」
「はあ?なんで?」
「いや…なんか、開かない」
「アカナイ?」
「うん」
床に置かれたサトコ人形に目を移す。つるりと光沢のある体。つぶらというか間抜けな瞳。まあそれはいいとして問題は纏う衣装。製作者に何を考えているのか問い詰めたくなるようなナース服のコスプレをしている。
……可愛いのか?
「それ?」
藍にと言うよりサトコ、いやそれの着ているナース服に向かって問いかけるような心持ちで聞く。
「うん」
「だって、これ貯金箱だろ?」
「そう。」
「……なんで?」
「それがわかったらこうやってにらめっこしてないし」
「そうか」
何気なく、サトコを抱き上げてしばし見つめ合う。確かに、重い。
「さすがに言うだけのことはあるな」
「うーん」
「でもあんまり時間は無いぞ」
「そうだよな」
おそらく懸命に思い出そうとしているのだろう、空回りする藍の体が怪しい踊りを踊る。
いろんな意味で見かねた俺は、
「いっそ壊すか?そのほうが早いだ」
「それはやめてくれ!こいつとは子供の頃からの付き合いなんだ!六歳の誕生日に貰ってから雨の日も風の日もずっと一緒に年月を歩んできたいわば生涯の伴侶!お前より一緒にいた時間は長いんだぞ!」
早いだろう、のロを言い終わる前に遮ってくる藍。
謎の貯金箱と友情を比べられることになるとは思わなかったので多少憮然としたが、何とかその感情を押し殺して話を先に進める努力を続ける。
「じゃあ前にも開けたことはあるんじゃないか?最後に開けたのは?」
「あーーーーー………っと、三年前のある夏の日」
「じゃあ開くのは間違いないんだな?」
「うん」
「じゃあ待っててやるから、ささっと思い出してパッと開けろ」
「わかった。じゃあそれまでその辺でくつろいでて」
それだけ言うと甘ったるい顔を可能な限り険しく変えて、わき目も振らず再びサトコと格闘を始めた。俺は俺で部屋を一応見回すものの、娯楽品が全く無いことを再確認。
「あのな、刑務所だってもうちょっと何かあるぞ」
一応文句を言ってから、仕方なくその辺に置いてあった座布団を枕にして不貞寝をすることにした。
まあ言ってもしょうがない事ではある。こいつは極度の節約症で、貧乏性で、さらに言うなら本当に貧乏で、唯一の趣味はぬいぐるみなどのファンシーグッズ収集という、およそ普通の高校生の楽しみとは無縁の生活を送っているのだ。
「……………………暗号が必要だとか?」
長い苦悩の末にようやく藍が導き出したのはそんなピントのずれた答えだった。
「そんなもん聞いたこと無いぞ」
「無いとは言い切れないだろ」
「そんなハイテクが十年前にあったとは思えん」
「うぬぅ……」
呻く藍。と、ふと気が付いた疑問が口の中から飛び出す。
「というか、三年前はどうやったんだ?」
「普通に開けたよ」
「じゃなんで今は開かないんだよ」
「穴が見つからないから」
「あなぁ?」
腹這いの体勢からにじり寄るようにしてサトコを引っつかむと、その後頭部に指を付きつける。
「出す方」
言われて初めて思い当たった。サトコをひっくり返してみても、予想とは裏腹に裏蓋の姿が見当たらなかった。
「ないだろ」
「ないな」
なんだか理不尽な状況に二人とも言葉を失う。
だが、その沈黙は唐突にドアが開く快音によってあっさりと破られた。
どばん!とマンガみたいに乱入してきたのは案の定マンガみたいな悪ガキのツラだ。その下には180cmに届こうかと言うご立派な体も付随しているが。
(おっとこれはこれは『見慣れるまでは妙にアンバランスで鬱陶しい』と近所の皆様方に大評判のさがわかずま佐川和磨、後一歩、後一歩でそのドアはお釈迦でございます)
ぎりぎりと軋む扉の蝶番を限界まで引き伸ばしての登場に思わず心の中で実況アナウンス。
「お待たせー!じゃ行こうかみんな!ごめんちょっとタケシがさ……」
たたきに仁王立ちになったままで快活にしゃべくり出す和磨はこれが隠密裏に事を運ぶべき状況だと理解しているのか。
(どうせ話を聞いてなかったか聞いても忘れたんだろうけどな)
と。
「…………なにやってんの?」
怪訝な顔で和磨が尋ねる。未だにドアを開けっ放しである。
ふと、嫌な予感がした。
自慢になるのかならないのか分からないが、俺の嫌な予感というのは外れたことがない。何が起こるかは残念ながら分からないが、ピンと来たときに悪いことが起こるのは間違いない。程度の差は別にしても。その俺の勘が、このままではまずいと告げていた。なんだかは判らないが。
とにかく、なにかをどうにかごまかさなければ。
「いやちょっと………」
「穴が見つからなくて」
せっかくの俺の気遣いを無駄にして藍が喋り出す。
「あな……?」
見つめ合う三人。部屋の中が朝の静寂を取り戻す。鳥のさえずりと時を刻む秒針の残響がしばし世界を支配した。
そして気付いた。何が起きているのか。
和磨が部屋に入ってくると、ひっくり返したサトコちゃん人形を真剣な顔で凝視するいい年こいた高校生二人を発見。
ちなみに。サトコは白衣の下はスカートで、こいつらは穴を探しているらしい。
あまりといえばあんまりな事実に脳みそを真っ白に漂白していると、和磨は太極拳を思わせる穏やかに流れるような動きで少しづつ後退って行っていきなり身を翻す。
「ちょっと待て!お前は多分ヤバイ勘違いをしてると思うからお願いだからちょっと待って!」
まさに神速、玄関先まで瞬間移動し和磨を羽交い絞めまくし立てる。自分でも本当に時を止めたんじゃないかと勘違いするほどのスピーディーさ。
「いや大丈夫大丈夫俺は何も見なかったからその手を離して。実はタケシ委員会の仕事がまだ残ってるんで手伝ってやらないと。友達だったら助け合うことただし相手は選ぶこと。それが我が一族に伝わる鉄のオキテ」
言いながらも羽交い絞めを振りほどこうと暴れまくる。だがこっちも必死である。こいつを誤解したまま帰したら明日から俺達は社会的に死んだも同然の身の上となってしまうこと請け合いだ、どうにか誤解を解くかこの場で口を封じなくてはならん!
いや、別に殺さなくてもそこはそれ取引するとかぶん殴って記憶を曖昧にするとか色々あるんでね方法は。
「だから、これがその貯金箱なんだってば!」
藍が叫んだのを聞きつけ、巨体の駄々っ子はぴたりと暴れるのを止める。どうやらこのまま逃げることはないようなので、とりあえず羽交い絞めを解いてドアを閉めた。
「これが?」
「そうそう。」
「あの?」
「そうそう。」
「貯金箱?」
「そういうことです」
理解してもらったと安堵して脱力する藍。羽交い締めを解かれた態勢のまままだ動かない和磨。しばし間があって。
「ほんとにーーーーーー?」
眉根を寄せた和磨の思い切り疑り深そうな声がビブラートで響き渡ったっておいコノヤロウ。
「本当」
「本当です」
「そんな口を揃えて言うところが怪しいな」
「だったらちょっと持ってみろよ」
ひくつくこめかみを根性で押さえ込みながら転がっていたサトコを無造作に放り投げた。
「どれどれ………」
それを受けて和磨はサトコを抱こうとした。硬貨がぎっしり詰まった全長40cmの貯金箱であるサトコを。
ぞがしゃっご。
……重く鈍い激突音と。
「――――どぅうわああ!重っ!」
素っ頓狂な悲鳴。予期せぬ重圧に晒されて衝撃を受け止め切れなかった和磨の胸板には青痣くらいは出来ていることだろう。
一杯食わせてやることが出来てこちらはこっそりほくそえむ。
「うわこりゃすごいわ。あーーーー本当に。へーーーー。で?」
「で?って?」
「なんでまだ壊してないの?」
「壊スッ!?」
「道心も来てみんなそろってから御開帳って事でトンカチか何かで叩き壊すの?」
「とンかちィ!?」
「何その出たての芸人みたいなリアクションは。」
いつもどおり漫才を始めた藍と和磨を眺めながら、そういや道心の奴珍しく約束の時間に来ないなとふと思う。
「ああああああああああああああのーーーーですね、この貯金箱には僕にも色々と思い出がありましてですね、だから出来たら壊さない方向でぇ」
「貯金箱は壊すものでしょ。」
「真っ向からその意見は否定します!」
「というか何故デフォルトで壊すことになってんの?」
ネタの途中で口を挟むのは芸人に対し失礼な行為とは承知していたが、理由が理解できないままの話の展開は客側に不満が残る。やむなく和磨にそのこだわりの理由を説明してもらうことにした。
「というか何故壊さないという選択肢が発生するのか俺は知りたいんだけどね」
「別に壊さなくても取り出し穴がついてるからそこから出せばいいだろ。さっき俺たちが探してたのはそれだよ」
「うんにゃ駄目だ。古来より『ブタの貯金箱を壊してみたけど48円しか出てこなかったよトホホ』という連綿と受け継がれる美しい伝統を絶やすわけにはいかないのだよ。大体にしてブタは蚊取り線香入れのデザインにも使われている、いわばセトモノ製品の王!セトモノならせめてセトモノらしい最後を迎えさせてあげなさい、とかのヒンドゥー教もブタ肉食を禁じているではないかね?だから貯金箱は壊すの」
「イヤ意味がわかんないんだが」
「それよりヒンドゥーが禁じているのは牛肉食です。ブタはイスラムのほうですよ」
「お前も無意味に律儀だな。」
思わずツッコミを入れてしまう俺。
くそ、客を巻き込むとはなんという実力だ。
「あともう一つ」
「なんだよ」
「この貯金箱、セトモノじゃないと思う。」
「…………」
「…………」
「…………」
沈黙。
「…………何でいきなりそんなこと?」
脈絡の読めないネタ振りに素で返してしまう和磨。
「いやここに……」
藍、足の裏を示し、
「PET樹脂、って」
「…………」
「…………」
「…………」
また沈黙。
「…………十年前にPET表示マークってあったか?」
言ってみる。
「さあ……」
「知らないねえ」
誰にともなく投げかけた問いには呆けた答えしか返ってこない。もはや十数秒前と比べ異界にしか感じられない部屋の空気の重さは一体なんだ。
「というか『セトモノじゃないと思う』って十年間使ってきて気付かなかったのか?」
「三年前は確かにセトモノだったんだ」
「最後に開けた時な」
藍の答えを和磨に補足し顔を見合わせた途端、俺たちは同時に一つの考えに至った。
「じゃあそれ別物なんじゃないの?」
「ありうるな。寮に引っ越してくるときのゴタゴタとかで」
「セトモノがプラスチックに変質するのは無理だと思うけど」
「そうじゃなくてすりかえられたんじゃないかって言ってるんだよ!」
どこまでも天然ボケの藍に客であるはずの俺が無拍子で突っ込みを入れる。こいつがいるとどこまでも話が横道に逸れるので話していると疲れるが横で見ているととても面白い。
道心と二人きりで部屋に放置しておくとどうなるのかちょっと興味があったりして。
「すりかえる?誰が?何で?」
「お前、家じゃ別に貯金してることを隠してたりしなかっただろ」
「うん」
「ならお前の妹とか。」
「……………あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!!!」
俺の軽い一言に精神の要石でも射抜かれたのか、慟哭と共に藍が表情を決定的に壊して崩れ落ちる。蜘蛛のように折れ曲がる四肢をその辺に放り出すその様、あるいはまたもや忘我の淵を彷徨っているのだろうか。
どうやら思い当たる節がありすぎるらしい。
「何、そんなタチの悪い妹がいるの?」
「タチが悪いというか、あそこまで自分の欲望に忠実だと逆に見てて気味がいい。しかも目的の達成には努力を惜しまないしな」
特に藍の家族構成については深く知らない和磨に端的に説明してやる。
「美しいね。」
変な反応である。
いや、これは変人は変人を知る、ということだろうか。
「例えばこいつが中学に入って一番最初の修学旅行……」
「いい!いい!言わないで!思い出したくない!頼む!拝む!土下座する!」
俺が思い出話を始めようとしたかしないかのうち、明らかに不可思議な体勢から一挙動でコメツキのごとく跳ね起きるとご丁寧にも三つ指突いて福助よろしく土下座を繰り返す。
「というくらいこいつの心に傷を与えることに成功した数少ない例なんだが」
「思い出したくない、って言ってる時点でもう思い出している。byマーフィーの法則。」
そんなんあったか?
「それはともかく、これはその貯金箱じゃないわけ?」
「確実じゃないけど、その可能性はかなり高いです」
ショック療法なのかなんなのか、いまだにちょっとふらついているものの、ともかくも我を取り戻した藍が受け答えを再開した。
「そりゃ困ったね」
「そうですね……中身だけ抜いて捨ててないといいんだけど」
そっちかよ。
「じゃあ壊そう♪」
「へ?」
「だって君の思い出が十年分詰まったやつじゃないんでしょ♪なら壊しても問題ないよね♪くくく♪」
「ゑ……で、でももしかしたらすりかえられてないかもしれないでしょ!?」
「消えた取り出し穴とPETマークの謎は?」
冷静な声で横から突っ込む俺。いきなり怪しい声色になって顔がにやけてきた和磨。藍一人で相手をするには俺たち二人はいささか荷が勝ちすぎている。
「う゛……それは……」
案の定勢いをなくした藍がうろたえているうちに、和磨のほうはどうやらエンジンがかかってきたようである。
「そうかぁプラスチックかぁ♪じゃあやっぱりトンカチじゃなくてこいつを使ったほうがいいかなぁ♪いや〜今まで全然使う機会が無くってうずうずしてたんだよねぇ♪」
歌うように吟じるように、芝居がかった妙な節をつけながら、奴はポケットからナイフを取り出した。
…………ってコラ。
「…………なんですかそれ?」
「護身用に、って持ち歩いてるナイフ♪何かの時のために、って持ち歩いてたんだけど、何かの時ってあんまり滅多に来るもんじゃないしねぇ♪だから持つの止めようかと思ってたんだけど、こういう時には便利だなぁ♪」
断言するが、こいつを襲おうと考える変質者などいないだろう。むしろこいつなら襲いかかるのを躊躇した変質者を目ざとく見つけ、フレンドリーに話しかけて友情を深めてしまうに違いない。
「…………あんなテンションの人に凶器を持たせちゃいけないよね。」
「むしろ今なら強盗とかにあいつを黙らせてもらいたいよ俺は」
強盗なら金目当てだから容赦はしないかもしれないし。
「よおし、すぱぁ、といこうか、すぱぁ、と。ぬふふふ……」
ぶんぶかナイフを振りたくりながらサトコに近寄る和磨。それを見て慌ててサトコを抱き上げて逃げる藍。
「いや、待って!ちょっと待って下さいって!」
「はっはっは、まてよこいつぅぅぅぅ♪」
この部屋、十畳もあってかなり広いとはいえ、もちろん追いかけっこをすることを考慮に入れて作られているわけもない。にもかかわらずどったんばったん、ぬいぐるみをぽこぽこ蹴散らしながら、右に左に急停止、UターンIターン足払い、鬼ごっこの持てる技すべてを使い分けながら藍が逃亡生活を満喫している。それを奇声をあげながら追い回す和磨。
ずいぶん芸風が変わったものだ。
と、被害を受けないように玄関のたたきまで避難していた俺の後ろでぎりぎりと扉が音を立てて(もう蝶番は駄目になってしまったか)、今日三人目の来訪者を招きいれた。
振り返ればどうしん道心が相変わらず無表情なままでしばらく様子を見ていた。何言うでもなく佇み続ける彼に興味を失い前を向く、ちょうどそのときにこいつはいつも問いを発する。
「辰野。……これは、何だ?」
「……何に見える?」
期待と諦めをないまぜにして、問いをそのまま突っ返す。道心はしばし黙考し、重々しく口を開いた。
「…………和磨が隠し持っていたファンシーグッズを大河が鞄から発見。大河、辰野両名にからかわれ和磨は逆上、焦った大河はグッズを人質にとって逃走。そのため和磨は手が出せず、ナイフで威圧を試みるが、なんだか楽しくなって今は仲良く追いかけっこ。という感じか」
「大筋は全然違うが結論は当ってる気がするなー」
やっぱりこいつも相変わらずである。
「仲間外れの辰野は涙がこぼれないように空を見上げようとするが生憎大河の部屋には窓がついていないのであった。嗚呼思い出す夏の日――――」
「そこは全然違う」
「大丈夫だ安心しろ。あんな奴ら確かに見た目は楽しそうだが仲間になったって良い事なんか一つも無く逆に人間のクズと呼ばれることになるんだぞ」
「聞いてねぇな。」
もはや説明を諦めてそのままほったらかすことにしようかとも思う。もとよりどうせ大して重要なことでもないのだ。
どうせそんな考えを後押しするかのように、話の腰を椎間板ヘルニアに陥らせるような発言を同心は繰り返すに決まっている。
「で、いつ飲みに行くんだ?」
…………。
よくよく考えてみれば俺たち全員が本来の目的を忘れていたようだ。この騒ぎに関わっていなかった道心がマイペースな発言をしてくれて逆にありがたい。
こいつが話を先に進めるとは珍しいこともあるというか。
「あいつらが止まったらだな」
「仕方ないな。俺が止めよう」
そういうと道心は無造作に追いかけっこの輪に近づく。いい加減息が切れてきている(というよりこれだけの時間捕まらずに逃げ続けていただけで驚きだ)藍が道心を認識すると、サトコを抱えてラグビーのトライのように滑り込んでその背後に隠れた。その瞬間目標を道心に変えて和磨が襲い掛かる。もはや状況認識が出来ていないのだろうか、トチ狂って動くもの全てを襲わずにはいられないような状態だ。
右手に携えていたナイフを突き出した。
刹那、ナイフが蛍光灯の光を撥ね返して視界を白く染める一瞬、道心がそれを左手で払いのけると右手で掴み、足を払って腕をねじると。
「あいたたたたたた!」
「制圧完了」
あっという間に和磨が地に組み伏せられている。
「たまには役に立つな」
「失礼な。それでは俺が普段無目的に技を使っているように聞こえるではないか」
「そう聞こえなかったなら俺の言い方が悪かったんだな」
揶揄を揶揄とも受け取らないこの男。やはり精神構造が常人とは著しく異なると言わざるをえまい。
ようやく休息を取れた藍が荒い息でへたり込んでいる。
「良し、飲みに行くぞ」
「いや…あの…ちょっと…まだ…」
「何をやっている。早くしないと赤外線センサーが発動して脱獄囚をレーザーで蜂の巣にするぞ」
「セコムにレーザーなんてついてないっ」
「うちは悪評を人一倍気にするからな。つけていてもおかしくはない」
「いくら気にするったって限度があるっつうの!そんな危険物つけて死人が出たらどうするんだよ!」
後言わせてもらえばセコムは普通夜中に発動しているものだ。ここは刑務所じゃないんだから。
「むしろ俺としては君以上の危険物は無いと感じるこの状況。」
「あ、正気に戻った」
言葉を発するようになった和磨を見て藍が呟く。
さっきのが本性かも知れんが。
日本語を話すようになった和磨から腕を放す道心は、
「どちらにしろ時間が無いことには変わりない。行動は迅速に、だ。さっさと急ぐぞ」
「いや、まだ貯金箱が開いてないんです」
「そんなもの後にしろ」
「いや、後にしたら飲みに行けないじゃない」
藍の意見を一蹴する道心に地面にへばりついたまま和磨が突っ込む。こいつもこいつで俺と同じような苦労をしているわけだ。
どうでもいいがさっさと起き上がらないと相当かっこ悪いぞ。
「何故。金が無いのか?」
「この部屋を見てどう思います?」
藍の問いに即答する道心。
質実剛健
「……」
「英訳すればスパルタン」
『聞いてない』
即座に突っ込む俺と和磨。
「貧乏。」
「自分で言うかそういうこと」
「他人に言われたくないでしょが」
悟っているのかなんなのか。ここまで自分を客観視できるというのもまた。
「ならば何故わざわざ飲みに行こうなどと」
「あんた今回の趣旨分かってないのか?」
「只酒が飲める。」
「……こいつ呼んだの誰?」
「うい」
元気よく挙手するのはもちろん消去法から言っても和磨以外にありえないけれども。
「あーー。まあしかたないわ……」
どうせ聞いた話は右の耳から鼻の穴に抜けたんだろう。
「あのね。僕の貯金箱が一杯になったから、その資金で飲みに行こう、って話だったわけ」
藍はさっきから抱えっぱなしの貯金箱を持ち上げて示す。
「貯金箱。初耳だが」
「でもまあ分かるだろ」
「うむ。要するに君は見た目を貧乏に装いつつもその実こそこそと裏金をためてほくそえむ様な人間だったというわけだな」
「面と向かってそういうこと言うかね……」
「むしろ周りの人間がカツカレーなんか食べてるときに一人だけかけそばをすすってその差額を貯金箱に入れながら『いつか見てろよ』と闘志を燃やすような暗い根性を持っていると思うな」
「お前まで……」
道心と俺、交互にコテンパンに言われて藍はかなりへこんでしまう。
「そうしてコツコツと小遣いを貯めて京都に降り立ったお前が視線を背後に感じて振り向くとそこには」
「イヤァァァァァァァァ!!」
「は?」
再び咆哮すると頭を抱えてセルフ逆海老固めを掛けられる藍(仰け反りかえったとも言う)。さっきの話のときに居合わせなかった道心は目を丸くするばかりだ。
「続きは?」
「まあまたこいつが油断してる時にでも」
「ヒドイよぅ……」
興味津々の和磨を恨めしげに見やる藍の頭上で、周りのことなど目にも入れない道心が、
「それはともかく。開かないなら壊せばいいのでは?」
「この貯金箱な、こいつが六歳の頃から大事に大事に使ってきた物だから、壊したくないんだそうだ」
「誌的な感情では腹はふくれんぞ」
「酔えないの間違いじゃないのか」
「それはそうと、どのくらいの金額になる見積もりなわけ?どうしても開かないんだったら俺が代わりに出そうか?飲み代」
どうやら和磨も多少は話を先に進めるつもりになったらしい。この膠着状態を打開する姿勢を見せ始める。まあそうなればやはり俺たちも負担しなければならないでしょう人道的に。
それじゃただ単に割り勘で飲みに行くのと変わらないような気もするけど。
そもそも、こいつはどの程度の宴を念頭に置いていたのだろうか?
「そういえば三年前はいくらになったんだ?」
聞けば、きょとんと虚を衝かれたようにこちらを向くと、目を閉じて眉間にしわを寄せ、脳髄から搾り出すように記憶を探り出した。
「う―――――――んとね、その時は十円玉だけだったんだけど、それでも二万円はいったね」
「中学生にしては割と大金だよね。」
素朴な感想を漏らす和磨に藍は、
「ただしそれはあくまで十円玉としてです」
「?」
「ギザ十のなんかレアなものが何枚もあったらしくて。それを切手屋に持っていったら全部で五十万円にはなりました」
『ごじゅ……!?』
絶句するより他にない。本気でこいつの私生活の一部始終が気になりだしてきた。
大体中学生が十円玉で二万も貯金するって一体どういう資金運用をしてるんだ?
「い、今は……?」
「今回は五百円玉だけで貯めてるから……単純に金額だけでもその五十倍で……」
「百万は下らない、ということか……?」
「五百円玉って希少価値のある年代とかあったっけ……?」
正確な値をぶつぶつ暗算し始めた藍を除いた三人の視線が、そろってサトコに集まる。ややあって。
「…………壊そう」
「…………異議無し」
「へ?」
和磨と道心が口火を切った。
「気が変わった。百万と聞いては……見過ごせないよねぇ」
「次の休暇はいつになるか分からん。つまりどうあっても今日のうちに遊びに行く必要がある。となれば時間が惜しい。ならばさっさと破壊する。何か反論は?」
墓場から蘇って来た亡者の大群に相通ずる不気味さでじりじりと、欲望の油が渦巻いた目玉でぎろぎろと、サトコを抱きしめた藍を包囲する。二人の異様なオーラに気圧されてずるずると後ずさり、さっきまで縦横無尽に逃げ通した部屋に変わりないのにあっさりと部屋の隅へと追い詰められていった。
「え、でも、だって、これは僕の大事な、友と言ってもいい貯金箱なんですけど……」
「いいか大河。死は誰にでも等しく訪れる。それは変える事の出来ない真実だ。だが君が友のことを記憶している限り、その友のパーソナリティは君の脳の中に確実に存在する。友は君の中で共に生き続けるのだ。君が生きている限りは。だから、死を畏れるな」
「それは確かに正しいけど加害者の言うべき科白じゃないでしょ!?大体目的が金目当てって時点でなんか空々しく聞こえるし!」
ごまかしきれなかったことを悟りそれぞれ「ちっ」とか何とか悪態をつく二人。そこまで見届けると俺は、藍の抱きかかえていたサトコを取り上げてその辺に転がした。
「え、俊悟……?」
「まあお前の気持ちも分からないでもないしな。だから」
サトコの行方を追って俺に視線をぶつける和磨と道心に、
「もうちょっと待ってやれ」
真っ向から睨み返してそう言った。
「あ、ありがとう……。」
礼を言う藍を亡者の包囲網から引っ張り出す。
納得がいかない顔をしている二人にもう少し説教をしてやろうと振り返り、、
「それにこいつの機嫌を損ねたら取り分が少なくなるかもしれないだろ。少しは考えて行動しろよ」
「お前のそういう正直な所は多分損をしてるぞ……」
あれ?
何はともあれ和磨と道心が顔を見合わせ、頷く。ほっとため息を漏らしてもう一度取り出し口を探そうとする藍。と。
『スキありぃぃぃぃぃ!』
 奴らは雄叫びをあげて背後から俺たちを追い抜くと、二手に分かれてサトコに突撃を開始した。
「ああっ!」
「しまった!」
藍と俺は、二人して絶望の悲鳴を上げた。
とっさに後ろから和磨に抱きつく。和磨が一瞬足を止めて振りほどこうと身をよじる、その気配を感じると即座に腕を解き首筋にチョップ。正確に延髄を打ち据えた甲斐があり、あえなく和磨は床に倒れた。
動けないよう上に馬乗りになって手をねじりあげようとしたが、そこに横から出てきて道心がフックを出してきた。かわす。左フック。またかわす。けたぐり。かわせず和磨の上から振り落とされる。
その時何気に後ろに来ていた藍がひざかっくんをきめた。予想もしていなかったのか道心がまともに転がる。稼いでもらった時間を無駄には出来ない、すかさず起き上がるが目の前を白刃が横切った。
さっき見せびらかしていたナイフ。
(こんの阿呆が……まだ懲りてねえのか!)
逆上したのかハイになってるのか、和磨は乱闘の最中に凶器を持ち出して来た。この時点で手加減はしないことにする。
一旦間合いを取り直して様子見に回った。出鱈目に振り回されるナイフ。その軌跡をかいくぐって素早く間合いを詰め、あごを殴る。吹っ飛ぶ和磨の体はそのへんのぬいぐるみが受け止めてくれるだろう。もしそうでなくても知ったことじゃない。
刹那に立てた作戦を次の刹那で実行し、大音声を道連れに刃物馬鹿一号はぬいぐるみのマットに沈む。
一仕事終えて気が付けば、こけた道心はサトコを確保しようとした藍の足を掴んで引きずり倒しているところだった。無様にもがく藍。立ち上がりかけていた道心を押さえつけるために俺はそちらに走り寄った。
決定的な間違いを犯した。
本当ならば俺は藍の代わりにサトコを拾っておくべきだったのだ。三人が団子になって騒いでいるとき、和磨が気がつくとどうなるか。




サトコがスキだらけ。




醜い取っ組み合いだのつかみ合いだのから我に返ったとき、既に和磨はサトコに向かってダッシュしているところだった!
「もらいっ!」
「させるかっ!」
押さえ込んでいた道心の体を放り出すと跳びかかる和磨に追いすがる。動き出したのはあちらが先だが位置的にはこちらが有利だった。全身の筋肉をたわめ、弾かせ、あらん限りに瞬発力を搾り出して跳躍する。
一瞬早くサトコをひっ攫うと――――
「このぉっっっ……!」
ヴうんんっっ!
……開いた窓から、思い切り放り投げる。
「…………え?」
「…………!」
「…………」
微かに残像を残すと文字通り放物線を描いておぼろげに残る朝の闇に消えるサトコを、三人は為す術も無く見送った。
「藍!走れ!」
すかさず叫ぶ。ひっぱたかれたかのように身をすくませてこちらを見やる藍に、
「植え込みの辺りだ!もしセトモノでも壊れてやしない!」
続けて叫んだ。
それを聞いてようやく走り出す藍と、やはりそれよりも早く反応していた和磨の足音がばたばたと遠のいていく。廊下を走る足音が小さくなり……小さくなり……やがて聞こえなくなる。
そこで初めて、
「……あんたはさすがに引っかからなかったな」
ただ一人、その場に残った道心に視線を向けた。
「あのタイミングでよく気づかれなかったものだな。一体何を投げた?」
「そのへんに転がってたあいつの大事なピカチュウの一分の一ぬいぐるみをちょっとな。大きさがちょうど良かったからもしかしたら騙せるかと思ったんだが――――」
後ろ手にぬいぐるみとすりかえておいた貯金箱を握りなおす。ずしりと重い触感がした。
「まさかおあつらえ向きにあんたと二人きりになれるとは思わなかったぜ」
「どういうつもりだ」
「こーいうことだよ」
どん、と隠しておいたサトコを目の前にすえつける。それを踏み越えるようにして一歩前に出ると、
「こいつを壊したいならまず俺を壊せ、と言っている訳さ」
指を開いた右腕をまっすぐに突きつけてやった。白い左の手袋は無いが、大体雰囲気で何が言いたいか分かるだろう。
「あんたとはいっぺん決着をつけておきたかったんだ!来いよこの格闘オタクが!」
「上等……!」
似野道心(にたのどうしん)はにやりと口角を吊り上げ、寡黙にして雄弁な友人から冷静なくせに熱い血を持った仇敵へと変貌を遂げる。




――――二人の邂逅に是非も無し。かくて、傍若無人な破壊の嵐は巻き起こる――――




……頭を戦闘用に切り替えて状況を確認。ぱっと見て構えていないようでその実俺ごときには手が出せない隙しか見当たらない道心を目の前に、二時方向に玄関を向けている。そこら一帯には藍が蹴飛ばしたぬいぐるみが、整然と並べられていた時よりも体積を増やして散らばっていた。サトコは目の前に転がっているが、ここまで挑発してやれば道心も俺を倒す前に奪って逃げるようなことはありえない。まだ閉めていない窓は俺の後方八時。高さは二階だから地上まで約三メートル強といったところ。
素直に見るならいきなり背水の陣の格好だ。
「どうした。喧嘩を売っておいて腰が引けているぞ」
「吐かせ」
吐き捨てると同時、予備動作無しで足元にあった謎の黄色い鳥のぬいぐるみを蹴飛ばして道心にぶつける。とっさに右手で払いのけるのを見て取ると、僅かに広がった体の右側の隙を突いて即座に懐に潜り込む。返す腕でこちらを掴みにかかってくる、だがそんなことはこちらも予想済みだ、止まらずに横を駆け抜けながら次々と一面に転がるぬいぐるみを拾い上げて投げつけた。
「こんなものでは牽制にもならない!」
奴は言いつつ、もはや避けようともせずに布の弾幕を当たるに任せながら俺の退路を塞ぐように回りこんできた。その足運びは間合いを一定に保ちながらこちらを追い詰めるという目的を最小限の動きで実現している。隙はもう出来ないだろう。
あたかも先ほどの鬼ごっこが再開されたかのように。藍の部屋は縦横無尽に二人の死闘に蹂躙される。
「駄々っ子でもあるまい!まともに戦え!」
「このっ!」
食卓兼勉強机を踏み台にして跳躍。逃げるのではなく道心に向かって。
ワルツのリズムを狂わせて打ち掛かる、だがそれを奴は待っていたらしい。
右の拳が振り抜くその空間には一瞬前まで在った道心の頭はもうない。身を沈め、倒れこむようにして、逆に俺を巴投げのような格好で受け流す――――
「な、んとおっつ!」
慌てて両手を地面について腕のばねだけで体を前宙させる。再びその場に立って向き直るのが早いか、道心が死角から組み付いてきている。即座にその場から弾け飛ぶようにして逃げ出した。悠長に転がされて立ち上がっていたら確実に捉えられていただろう。
「し、だあっ!」
追いかけるように掛け声を伴って繰り出された拳。とっさに作ったガードを弾いて顔面を叩く。痛みをこらえて放つ回し蹴りはあっさりかわされ、カウンターの掌底が肋骨を思うさま痛めつけた。
勢いに逆らわずそのまま吹っ飛び、背中を叩いた壁に追い詰められたことを知る。
脇には巻き込まれたサトコが転がっていた。
「あっけないぞ!」
「知ったことか!」
応えて再びぬいぐるみを蹴り飛ばす。今度は見事な勢いでもって道心の顔面を直撃した。
「しつこい……!」
呻く道心がぬいぐるみを頭を振って払い落とし、




眼前に迫る光景に目を見開いた。




自らに向かって飛来するサトコの貯金箱と、
それを追うように迫る俺である。




もちろんサトコはぬいぐるみが視界を殺した瞬間を狙って俺が投擲した。
ぬいぐるみはもちろん目くらましに過ぎない。だがそれをフェイントにされても俺の攻撃を凌ぎきる自信が道心にはあったのだろう。だからあえて隙を見せることなく目くらましの攻撃を全て甘んじて受けることを選択した。
しかしこちらにもぬいぐるみをフェイントにして仕掛ける白兵戦が奴に通用しないという確信があったのだ。だからこそ予測を裏切るような単純かつ低レベルな攻撃を選んだ。
半端な腕の武道家は、完全な素人のがむしゃらな攻撃を捌ききれない。
師に習った手本通りの技に対する反応しか出来ないからだ。
道心ほどの腕前の奴にこんな子供騙しが通じるかは分からないが――――現時点で選択できる戦術はこれしかない!
(避けるか!?)
「あっまあいっっっ!!」
ドバンッッ!
気炎と共に道心が拳を床に打ちつけ、破裂音を伴い眼前に障壁が出現する――――!?
「畳替えしだとぉ!?」
忍者かお前はっ!
こっちが驚いて速度を殺している間にも、めくれあがった畳が高速で突っ込むサトコと激突し……高質量の負荷に耐えられず倒れこんだ。慌てて飛び退る道心。勢いあまってまたもその辺にすっ飛んでいくサトコ。
意味がないと思うかもしれない。だがこれでサトコの迎撃と俺の追撃阻止、二つを同時にこなしている。
ただ避ければ俺に捕まるし、受け止めれば一瞬動きが止まる。それを瞬時に読み取り、一見派手なだけに見える大技をあえて選択したのだ。
(ここじゃ勝ち目がない……!)
「結構肝が冷えたぞ……」
一人ごちると一瞬にして体が膨れ上がるかのように見える速度で突進してくる道心。肘打ちが飛んでくる。中段蹴りが突き刺さる。回避軌道の先に裏拳を合わされた。
(こいつは基本的に空手家だから関節技や投げ技よりも打撃技に頼ってくる。付け入るとしたらもうそれくらいしか!)
必死になって攻撃をガードしながら作戦を練る。したたか殴られた鼻から痺れが走って涙が視界を塞ぐ。
さらに乱打戦にもつれ込みそうなところを逆に一歩踏み込み、
「その首もらった!」
横から腕を巻きつけて喉を狙った。
腕の中に首を巻き込んだ感触は、
「っこの……!」
眼前の光景に期待を裏切られる。
巻き込んだのは突き出した道心の左腕。チョークスリーパーを狙っていた俺の両手は塞がった。
(まずい……喰われる!?)
鼻の奥に乾いた匂いが生まれる。立ちくらみを起こした時に感じるようななんともいえない刺激が頭を駆け抜けた。
それを戦慄と人は呼ぶのかも知れない。
俺に腕を掴ませたまま、道心の体が跳ねる。バネのようにというよりも、柳のようにしなやかに、
ゴん!
俺の脳天を打ち据えた。
かかと落としをまともに喰らってぬいぐるみの山へと堕ちる。さっき和磨を沈めたところだ。
「っが!?!?!?」
塩を鼻の穴に突っ込まれたかのような痛みが走った。やむなく追撃を避けるために必要以上に転がってその場を離脱する。
(この部屋から逃げる。まずはそれしかない)
だがどうやって?
間合いを取って再び起き上がり、戸口に向かって走ったところで、道心がそれをみすみす見送るとは思えない。
回転を止めて見上げれば、すぐその前に道心が立ちはだかる。
「……くそっ!」
ホラー映画で追い詰められたヒロインの如く仰向けにじりじりと這いずりながら間合いを取ると、硬いものが指先に触れた。
「!」
「どうした」
「いや……どうも勝ち目がないみたいだな」
「命乞いか?見苦しいな。とても」
壁を背にして立ち上がる。よろめきながら。
「だから……ステージを変えさせてもらうわ」
「なるほど。逃げるつもりか。口に出さなければ不意をつく機会もあっただろうがな」
言って道心は、素人目にも明らかに隙のない構えに切り替える。
絶対的優位に立った者の静けさ。だがそこに油断はない。
だが……まだ俺の戦略は終わったわけではないのだ。
手札はネタ切れ。チャンスは一度。それでも――――




最後に俺はスペードのエースを引き当てた。




一歩踏み込む。
走り出す俺の行く手を塞ぐように、相も変わらず流水の足捌きで間合いを詰める道心。
「くわあああああっつ!!」
それにも構わず雄叫びをあげながら突っ込み――――奴の射程範囲に入る直前で、わざと足元を転ばせる。
「!?」
「――――っ!」
意識が逸れたその一瞬、重心のバランスを必死で立て直しながら、ありったけのぬいぐるみを道心の顔面めがけて蹴っ飛ばす!
「一度失敗した手を!」
道心は叫んで




――――――――――――穿。




時が凍ったかのように、二人の動きが静止する。
ぼたぼたとぬいぐるみが落ちる中、俺は道心を引き離して玄関まで到達している。道心はまたも間合いを詰めようと動きかけたその状態で固まり、たった今眼前をよぎった閃光に心を奪われていた。
顔だけをこちらに向けたまま、眼球の動きだけでその後を追う。
道心の足元に突き立った銀色の煌めき。
それはさっき和磨を叩きのめした時に奴が落とした護身用のナイフ。
俺が拾って投げつけた。
道心が明らかに目の色を変えた。
「刃物を出したなら手加減はしないぞ」
「言ったろ。今日は本気で行く。全力出して止めてみろ」
言い残して身を翻す。蝶番のイカれた扉を蹴り開けると、あえなく戸枠が吹っ飛んだ。間をおかず俺を追ってくる道心が、完膚なきまでに崩壊した元「部屋」であった空間を走り出て――――




――――そして嵐は解き放たれた。




ダンダンダンダン!
激しい靴音を漆黒の隙間に弾かせながら駆け抜ける。目当ては戦いの舞台となるべき場所。
振り返らずとも背後にぴったりと道心が着いてきているのが解かった。
(これだけ広けりゃ多少なりとも地の利を生かして闘える。代わりに目くらましはもう使えないってことになるか)
寮の階段は二箇所、全部で三階建て。現在地は二階。この時刻ではどこの部屋も鍵を掛けて寝ているのが当たり前。屋上への扉は常時鍵が掛かっている。どこかその辺には備え付けの消火器があったかもしれない。玄関口まで走れば傘立てがあるはずだ。即席で使えそうな道具といえばその程度か。
真っ直ぐな廊下を全力で駆け抜け、十字路の死角に潜り込む。
(どうする……なんかワイヤーとかどこかから引っ張り出しきて、足元に風閂仕掛けておいてそこに引っ張り込むとか、画鋲ばら撒いてマキビシ仕掛けるとか)
小細工を考えていた曲がり角で、
「!」
フォン!
間一髪屈めたその背中を、流星のような衝撃に追いたてられる。
「くそ、トラップを仕掛ける暇なんかありゃしないか!」
言葉に合わせるように突き出されてきた拳を首を捻じ曲げて交わすと、お返しに手刀を突きこむ。避けるまでもなく見当外れの場所を貫くそれを吹っ飛ばして直線的な蹴りが飛んできた。
それを回避して背後から体当たりを食らわす。バランスを崩して道心が倒れこむ。体勢が崩れたのを確認すると一目散に逃げる。
足を止めれば一瞬にして肉弾が襲い掛かるこの状況で、のんびりと先読みした戦略を考えている暇などないのだろうか?
「そんなことは――――ありえない!」
戦略の存在しない戦闘行動などありえない。それが場当たりだろうが大局的だろうが、稚拙だろうが深遠だろうが、必ず戦略と認識できるものはある。さっきの俺の立てた戦略が稚拙だったというだけで、戦場をここまで拡大できた以上、この状況を打開できるだけの手札は既に用意されているはずだ。
勝てるはずだ。
走り続ける。曲がり角を曲がってスピードが落ちる一瞬に交錯して攻防。それを何度も繰り返す。
曙は未だ見えない。




辿り着いたのは寮の入り口の大ホール。おそらくこの建物の中で最も広いスペースを持っている。
ここが決着の場だと予感が告げてくる。
(そうか……つまりそれが)
囁いて、飽きもせず背後にぴったりくっついてきた追跡者に向き直る。
ほんの少しの間合いを空けて道心が足を止める。
僅かな、
静寂が朝の世界を支配して、
「終わりだ」
呟きを残し、




――――嵐が止む。




道心が最後の突進を開始した。




(そらまともにやったら格闘技に精通しているあいつに敵うわきゃ無いわな、俺には技術も型もない)
待ち受けながら胸中でこぼす。左腕を引き戻す勢いでこちらに見事な正拳を投げつけてくる道心の姿を眺めながら――――
(でも……こういうのはどうだ!?)
――――左腕の腱を精一杯に固めると正拳に横からぶち当て拳を逸らす。必殺のはずの一撃をいなされた道心の顔を見る事は出来なかったけれども、そんな気配が伝わってくるのを感じた。そのまま相手の懐に体を移動させて、拳を喰らう。
(……!?)
鳩尾に受けた衝撃は小さいものではない。異常な位置に潜り込まされた横隔膜が、肺から鈍色の空気を搾り出したかのように思えた。眼の前に撒き散らされたそれが視界を塞ぎ、酷く立ち眩みがする。鬱陶しい……!
「……諸手突き。かわせなかったな」
静かな声が耳に届く。だが脳に届くことはない。その前に鈍色の霧にかき消されて消える。意味が分からない。音波の信号を日本語に直すことが出来ない。が――――
(……左の……拳……か……?)
感覚的にそれを理解して驚嘆する。こいつは最初に引き戻した左腕を僅かに遅らせて倍加する速度で繰り出すことで、時間差攻撃に仕立て上げたのだ。本来の正拳突きならば突かれたときには完全に引き戻されているはずの引き手を。
(くそったれが……空手家のくせに常識外れの腕の振りかたしてやがる……)
「寝ていろ」
言葉と共に、脱力した体の首筋に激烈な手刀が叩き込まれた。
「……っ!!」
精神と肉体の接続を断ち切りかねない一撃に必死で耐える。気を失うわけにはいかない。ずっとこの機会を待っていたのだから。
初めての、反撃の機会。
当たり前だ、今まで俺は相手の体にろくに触れることも出来なかった。が。
(あっちがこっちに触れられる距離だって事は、こっちもあっちを捕まえられる距離だってこと――――!)
思い通りになろうとしない手足をぶん殴るような心持ちで、倒れ込もうとする俺を見下ろしていた道心の体に齧りつくと――――
「むっ――――!?」
奴のうめき声を無視して。
「……こぉなくそぁっ!」
引き攣れて悲鳴を上げる背筋と上腕二頭筋も無視して。
(どうせこの状況じゃもうばれるのは時間の問題だろ。だったらせめてあんただけでも先に説教――――)
「喰らって来いやぁっっっ!!」
その絶叫が彼を投げ飛ばしたと――――そんな言い訳をしたら誰が信じてくれるだろうかと埒もないことを考えながら。
ともかく俺は寄りかかられてバランスを崩したその勢いを殺さぬまま道心の体をバックドロップの要領で叩きつけ、その行く先にあった宿直室の部屋の扉を豪快に爆砕して夜のしじまにド派手な騒音を撒き散らかしたのだった。





「――――無茶苦茶するな」
粉塵がもうもうと巻き上がる中で、呆れたような声がする。
俺はそちらに向けて緩やかに歩み寄った。
「だがこれでお前の勝ちになるのかな?確かに体中打ち身だらけかもしれないが、俺はまだまだ動けるぞ」
「いいや、これでチェックメイトだ」
道心が枕にしているドアの破片を踏みつけて、初めて俺は道心を見下ろした。
「どう見てもこの状況だったらあんたが暴れて部屋をぶっ壊したようにしか見えない」
「だがそれはお前も同じことだ」
「ああ、遠からず俺たちは先公に取っ捕まるだろうな。そしたらあんたは何て説明するんだ?俺は正直に説明するぜ、あんたが藍の貯金箱を強奪するために暴れだしたってな」
「……!?」
道心の顔が引きつる。
「そうすりゃピカチュウ追っかけてってあの後のことを知らない二人も話を聞かれることになるよな。少なくとも藍はそれまでの事を正直に話すだろうし、和磨が嘘を吐けるほど何か考えてると思ってるわけでもないだろ?」
「貴様……!」
「藍の部屋を散々荒らした挙句に宿直室を大破して強盗未遂。停学程度で済めばいいな」
「おのれ……」
「助かりたかったら、道はもう一つしかないんだよ」
努めて酷薄に、告げる。
こいつが俺の挑発に乗った時点で、俺の勝ちは潜在的に決まっていたのだ。それに気付いたのはたった今といってもいいくらいだが。
それにしても、苦虫を噛み潰した表情というものを実際に見ることになるとは思ってもいなかった。ましてやそれがこの男のものだなどとは。
それを眺めながら、俺は待つ。道心が口を開くのを。
やがて、ギリギリと奥歯を噛み締めていた道心が諦めのため息を吐き、敗北を認める言葉が、その唇から漏れ出でる――――




「いや、実はそうでもないんだが」




『なに!?』
豆鉄砲を食らった鳩の気持ちそのままで、俺たち二人は声がした方向に視線を突き刺す。
そこにはいつも通り白衣を纏った高屋敷の姿があった。割と近くに藍と和磨もいる。
「な、なんでいるんですかあんた!?」
「俺のことか?俺なら宿直の見回りだったんだ」
「僕らはそれに捕まっちゃったんだよね」
情けない表情で藍が弁明した。
「それでお前らに話を聞こうと追っかけまわしていたんだが……」
そこまで言うと言葉を切って、
「さっきから見ていれば辰野が無実だとはとても思えないな」
ちょっと待たんかい!ということはさっきからの俺たちの死合をずっと見ていたということか!?どっちからも気付かれずにその白衣姿で付け回していたというのか!?
何者なんだ、あんたは。
「まあとりあえずリクエストにお答えして事情を聞くからこっち来い。散らかってるけど」
寒気が走る俺を尻目に、高屋敷は大破した宿直室に俺たちを招きいれたのだった。





こうして、予感通り確かに戦いは終わった。
無事にとは行かなかったけど。





「なるほどなー。こりゃお前ら全員下手すりゃ寮を追い出されるぞ」
一通り話を聞き終わって、高屋敷はそう結論を下した。
「それにしても」
と、なにやら俺と道心を無遠慮にじろじろ見つめまわす。
「お前らのは喧嘩のレベルじゃない。どっちかといえばもはや高速の組み手の域に達してる。なんなんだお前ら?」
「俺ら四人は子供の頃からの付き合いだから、相手が何考えてるかはほとんどわかっちまうんですよ。だからほとんど相手の攻撃は喰らわないし、悪くても受身は取れる。それに加えて道心が空手なんぞ習ってるから」
「幸運にか不運にか喧嘩のたびに全員武術の型が出来上がっていくと」
「俺らは我流ですけどね」
だからどうしても道心の上を行くことは出来なかったのだ。
まともに行っては勝てないと思い知って、リーチを伸ばすために道心には内緒で剣道を習ったこともあった。中学生の頃だ。意地だけで鍛錬を続けて初段を取り、喜び勇んで道心に背後から不意打ちを掛けたはいいものの、あっさり真剣白刃取りと当身を喰らわされ完膚なきまでにコテンパンに打ち負かされた。
剣道三倍段を鵜呑みにするならば、当時既にこいつは空手四段以上だったことになる。
結局そのまま剣道は辞めてしまい、未だに道心には勝てずじまいだ。
「まあなんでもいいや。とにかく、始末書を提出するか裏取引に持ち込むか、どっちか好きなほうを選ぶといい」
「裏取引とは?」
「俺が個人的な事情で壊したってことにしてしまえば、とりあえずお前らの内申書に傷がつくことはないな。まあその場合見返りは当然要求させてもらうことになるが」
「職権乱用ではないのですか」
「だから別に強制はしないさ。お前らの自由にするといい。これはただ単に俺の親切心と気まぐれだ」
「……その、見返りとは」
道心に問われて白衣の男は
「なに、簡単な仕事だ」
悪魔の笑みを浮かべて言った。
「ちょっと資料を探してくれればいい。それでこの件は無かったことにしてやろう」
……ああ。これでこいつらも犠牲者の仲間入りっぽい。
高屋敷はこちらを見ると、
「とりあえずお前ら二人は時給50%カット」
と、止めを刺してきた。





ちなみに後で調べたら、貯金箱は例の妹に過失で壊され、近頃リニューアルされたデザインが全く同じプラスチック製のものにすりかえられていた。中身は藍が気がつかなかったのをいいことに全部抜かれて変造五十ウォン硬貨を代わりにぎっしり詰められていたというのがそのオチ。
これで藍のトラウマと妹の謎がまた一つ増えたわけである。
どこから五十ウォン硬貨集めてきたんだか。




…………それから結局。
「ふぅーう」
そこら辺の不必要なプリント類をこれまた不必要な茶封筒に詰め込みながら、舞い落ちる埃を吹き散らすように鼻でため息をつく。
貴重な休日を木っ端微塵に吹き飛ばして大掃除は再開された。生贄を二人応援に寄越して。
御多分に漏れず部屋を占拠していたものは「いつか使うかもしれないもの」と「とりあえず置いといたもの」に大別できた。もちろん「いつか」のほうは当人にとってはどうか知らないが第三者から見れば明らかにゴミであり、「とりあえず」のほうは九割がたほっときすぎてもう用の無い代物であった。
とどのつまりこの部屋は九割五分をゴミで埋め尽くされていたといえる。まあ予想の範疇だろう。
明らかにゴミと分かるもの以外を高屋敷に鑑定してもらい、目的の資料は回収し、ゴミと判定されたらまとめて捨てる。
当然のように発掘された昔の生徒のレポートを読み始める奴にツッコミを入れるのはもはやお約束である。
そんなルーチン・ワークを何度も繰り返して、ようやく荒地は開墾が終わった。
……問題は、棚上げされているほうだった。
うむ、この言い方は誤解を招きやすいので言い直すが、つまりはずらずらと並べられた本棚の上に置かれている物のほうがよほど大量だったということだ。
「あのー……こいつらも調べないとあかんのでありましょーか……?」
「あかんですな」
ダメモトで聞いてみるが返ってくるのは冷たい答えである。
既に差し込む日差しは紅蓮の輝きを見せている。全て片付けるにはさぞかしこってりと時間をかけなければなるまい。
(ちくしょう、夕日が目に染みやがるぜ)
などという言葉が胸をよぎったりもする。
そんなことを思っている隙に藍がさっさと、だがどこか仕方なさそうに棚のほうに向かっていた。




だが、そこには――――。




「藍!そこどけ!」
「え?」
当たり前だが状況の飲み込めない藍の襟首をつかんで引っ張り倒す。とたんに空いた空間に古教科書の雪崩が押し寄せた。
間一髪!
「うわ、危な……」
和磨が呟き、
つるっ。
それと同時に襲い来る感触。
「って……えーーーー!!」
落下するときの重力加速度が体に作用し始めるのを感じられる。
引っ張ったせいでバランスを崩した藍がその辺のプリントを踏んだかなんかしたのだと、気づいたところでどうにもならない。
藍はまともにひっくりかえり、当然手で奴を掴んでいた俺ももろともに倒れ、るのはまずいので受身を取ってみようとした。が。
くるバサガゴン!ベン!ドゴ!……ドベシャ。
「あいちちち……」
「ぐるるるうぇ……」
受身を取るために半回転したところで横においてあったスチール製のロッカーに髪を引っ掛けて倒しそれに後頭部をぶっつけ、痛みにひるんだためそのまま落下し、その拍子に手首をその辺の椅子に打ちつけ、なおかつ藍が止めをささんとボディプレスを極めてきた。
ちなみに前者の苦悶は藍、後者は俺である。
「っなんでっ……こんな近くに集中して物置くんだよあんたは!」
たまらず動けないままにも顔だけは起こして抗議の叫びを上げた。勝手に口をついて出た言葉だが、実際言ってみれば確かに全身を貫く痛みは高屋敷の配置した家具たちの鮮やかな連続コンボだとしか思えない。止めは藍に食らったけど。
「……そんなことよりなー」
困ったような顔で言うことには。
「そこもどいたほうがいいと思うんだが」
「あ?……!!」
一瞬の困惑が運命を決めた。
振り仰ぐ。見上げる天井よりも近いところに、存在するものがあった。
漢語林、大辞林広辞苑、漢字海、岩波国語辞典、古語例解辞典、新明解国語辞典、エトセトラエトセトラなんだかんだなんだかんだ……
「ぬううううううううあああああああああああああっっっっ!!」
ごどがざざざごっどばしでどばごぞぢばがぼがでべざごがだ。……こん。
ロッカーから落下した大量の辞書の山に頭蓋を致命的なまでに殴打されたあとの馬鹿にしているような軽い衝撃で、掛け値なしに自我が崩壊しそうになった。
「そんなに髪が長いからぶつかるんだろ」
余韻が残る胡乱な俺の頭を高屋敷は掘り出すと、
「これで纏めておけ」
どこぞから取り出した髪留めの紐で俺の後ろ髪をうなじの辺りでくくってくれた。
「……なんでそんなもの持ってるんすか?」
民俗学的資料――――だったものだ。古文書の解読が正しかったら竜の鬚だとか」
「つまり、もうゴミと判定されたから捨てたいわけですね」
言いつつその辺に転がる辞書の類を拾い集める。よくよく考えてみれば死ななかっただけで儲け物である。
と、その中にひとつ異質な代物を発見した。おそらく最後に致命的なタイミングで脳髄を叩いてくれたものだろうが、
「……巻物まであるんですか」
「ん?ああ。結構な歴史的資料だからな。慎重に扱ってくれよ」
棚の上に放置しておいていまさら何を言うか。
とはいえ、さすがに巻物というのは珍しかったので、俺も好奇心をそそられた。青い唐草模様の千代紙のような和紙で装丁されたそれには、こう題目が振ってある。
「応龍寓話(おうりゅうぐうわ)」と。







 千年(ちとせ)ひととき、夢幻(ゆめまぼろし)の如くあり。
 唐は神山に一柱の綿津見(わたつみ)ありけり。其の長大なる御姿を深き湖水に沈めてゐたり。其は人に崇められ望まぬにえを喰らひて過ごす。
 其の怒りは雷、其の嘆きは雨、其の諦念は嵐となり、誰ぞとどめるべきものはあめつちのもとになしや。
 百年(ももとせ)が露(つゆ)と流るる。
 禍(わざわい)を忌みし帝にいわく竜を殺せと。命受けしいくさびと神山を登りき。其の眠りの深く吐息の穏やかなるを太刀を以て首を落としし。
 されど禍止まず都を飢が襲ひけり。
 真を見る眼を人は持たず、平らかに修めるべき術を知ることもなし。
 了







ほとんどが鳥獣戯画のように水墨画が描かれていた巻物の内容は大体こんな感じだった。読み終えるころには三人が棚上げされた挙句に滑落してきた辞書類を本棚に詰め込んでいる。他にはもう詰まれてはいないようだ。
「やっと終わりか」
「結構時間かかったよね」
「いやいや大変だったよねぇ」
「貴様はレポートを読み返していた時間のほうが長かったがな」
和み始める俺たちに高屋敷がにっこり微笑んで言う。
「おいおい、まだ終わりじゃないぞ」
『は?』
異口同音とはこのことか。期せずして俺たちのリアクションは見事なハーモニーを奏でることになる。
「仕事は『資料の発掘』だ。『準備室の掃除』じゃない。
半分くらいは家にあるはずだから来週はちょっと実家まで来てくれ」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
いくらなんでもここまでは予想していない。普通こんなことありえない。
既に「たいした事じゃないバイト」はどこにも存在しなくなっている。藍も和磨も道心も、最悪を通り越して今度こそ絶望色に顔を染めて立ち尽くす。
笑う気力も怒鳴る気力もなくなった俺たちは、実家の場所を告げる高屋敷に機械的な受け答えを返しながら千鳥足で休日の学校を去っていく。




この日を境に俺は、高屋敷を教師と見なすのをやめにした。