「……だからつまり、国生み神話には大体ぐちゃぐちゃしたものをかき回して集まってきたものを選り分けて国が出来る、というパターンがあるわけだな。
国によって海だったり空だったり、かき回すものも棒だったり剣だったりして地方差はあるが、例えば日本では……」
ぬるまり始めた空気が春の訪れを告げている。身を刺す寒気が名残を惜しみ、冬の別れを告げている。
まあどちらでも同じことだが、とにかくそんな感じだ。衣替えでも始めなくてはならないだろうか。梅が咲き出し桜がほころび、花見の客が酒飲んで踊る。何とはなしに胸が高鳴るような、そんな時期。
「春が嫌いなんて奴は少数派だろ、やっぱ」
「ブヒョヘッキシィン!」
「汚ッ!」
話しかけようと右を向いたとたんに鼻面で唾を弾けさせてくれる藍。今まで気にもしなかったがよく見れば今日はマスクをしているようだ。
「何お前、花粉症だった?」
「小学生のときからずっとね。
あのな俊悟、アレルギー性鼻炎患者にとっちゃ春は地獄なんだかんね。そういう意味もなく敵を作るような発言はやめたほうがいいと思う」
鼻詰まりとマスクで聞き取りにくくなった声で言ってくる。赤くなってうるんだ瞳はかなり辛そうである。
この綺麗にまとまった顔にその目というとりあわせは、男子校でさえなければさぞかしモテるのだろうなと思わせてくれる。イヤ密かにそっちのスジにはモテモテなのだろうか?
まあ確かに言う通りなので謝罪の意を表明するため、粗品としてポケットティッシュを進呈しておく。礼を言って鼻をかむ藍を横目で見つつ、もう少し授業に耳を傾けることにした。
三学期の期末も終わって一年のカリキュラムが終了したこの時期にする授業。気合が入らないのは生徒ばかりでなく教師もらしく、そのほとんどはビデオの教材でお茶を濁されるか、プリント配布で自習になるか、雑談と変わらない徒然なるままの講義になっていた。
当然テストが終わって夜遊びし通しの生徒がそれを真面目に聞くわけもなく、大半が居眠りか雑談に興じているという有様。手抜きなことを自覚しているのか教師もそれに口出ししない。
かくいう藍も力尽きて忘我の淵を彷徨っている状態だ。催眠術のように一本調子な教師の話に脳味噌をゆられ、「大河 藍」ときっちり名前を書いた教科書に頭を突っ込んでいる。
(窒息しねえかな)
と多少心を配っておく。
まあ俺は俺でそれどころでもなく、雑談めいた講義を結構楽しんでいる。無理に覚える必要のない話だから聞いていてストレスにはならないし、何より興味があったのだ。
「……まあつまるところはこれが数学的に言うところのカオスの概念を古代人が持っていた証拠になるのではないかということだな。
しかしここまで広域にわたって同じような説話が残っているからには、やはり実際神話に伝えられているようなことが起こったのだとしてもおかしくないと思うんだよな俺は。
人間自体がまだ存在していなかった頃の事をなんとなく、自分を形作るものの根源的な記憶として覚えているのかも知れないってな」
その辺まで話したところでチャイムが鳴り、ほわんとした教室内の空気を打ち砕いた。いったんチャイムが鳴ってしまうとなぜかそれまでの眠気は去ってしまうため、居眠りこいてたやつらも身を起こして挨拶に加わってくる。
「きりーつ、れー」
気の抜けた挨拶もそこそこに、教室を抜け出していく面々。用もないのに教室に居残り雑談を続ける面々。たった一つの鐘の音で、空気の流れが変わってしまう瞬間だ。ぞろぞろと動き出した人の流れに混ざろうと、荷物を片付けて背負ったそのとき、
「辰野―。辰野俊悟はいるかー?」
なんとなく間の抜けた声で、俺の名が呼ばれるのを聞いた。
俺はフルネームで自分の名を呼ばれるのが好きじゃない。
理由はまあ分かると思う。語呂がいいからである。「やーい、タツノオトシゴー」と揶揄された幼児体験はなかなか捨てられるもんではない。
親も親で安易過ぎるネーミングをしたおかげで性格骨子がねじまがるんじゃないかとは思わなかったものだろうか。イヤ、今はそういう話ではなかった。
戻す。
声の主を見てみれば何のことはなく、教壇の上から生徒の群れを睥睨している高屋敷である。まあ呼ばれてしまったものを無視するわけにもいかないので渋々ながら歩みを止めてそっちに向き直る。
春の日差しが埃の渦にぶつかってチンダル現象を引き起こす。斜めに差し込むその光を浴びながら、高屋敷は振り返ったこちらに気がついたようだった。
「なんですか」
呼び出し食らうようなことはしてないはずでしょうが。
目で語る俺の視線を認めると、ダブルブリッジの眼鏡をクイと押し上げて笑ってみせ、
「いやなに、ちょっとした頼み事があるだけだ。
そんなカリカリすんなよ。補習でも追試でも個人授業でも説教でも教育的指導でも三者面談でもないんだからさ」
「高校生にもなって皆勤賞とってる優良生徒の俺にそんなことしたら文部省に言いつけますよ」
「あんな木っ端役人どものいうことをほいほい聞いていたら日本人はどんどん頭が悪くなるぞ。
それとあんまり優良生徒は自分からそんなことを言わないな」
「そうっすね。じゃあ性悪生徒の俺としては教師の言うことなんぞ聞かずにさっさと帰って寝ることにするんで」
そう言ってきびすを返そうとする俺の後ろ髪をムチ打ちになるかと思えるほどに引っつかんでくれたのは言うまでも無し。
「駄賃ぐらいは出すからさ」
「仕事の中身と報酬によりますね。
別にやることがあるわけじゃないけどやりたいことなら有り余ってるんで」
「自給千五百円と言ったら?」
かなりの破格だ。
「何すればいいんですか」
「大した事じゃあない。来月の民俗学の学会で発表するための資料を探してほしいだけだ。
とりあえず準備室まで来てくれ」
「……へ?」
たぶん口を開けていたのだと思う。気が付いたら何故か喉がいがらっぽくて咳き込んだ。
一体何を言い出すのかこのおっさんは。つまり俺に準備室の大掃除を手伝え、と言っているという事じゃないか?
「ちょっとすいません。それでなんで俺なんですか?」
「だってお前、物見つけるのが得意なんだろ?
とっ散らかった部屋の中に埋もれたリモコンだの靴下だのを百発百中で探し当てるって聞いたぞ」
人を警察犬のように言わないでもらいたいもんだが、それより気になることがある。
「……その話誰から聞きました?」
「ん?そこで寝ている大河からな。
どういう話の流れだったかは忘れたけれどな、資料が見つからなくて困っていたらそいつがよく物を失くしたらお前を家に呼んで探してもらっていると教えてくれてな。だから少し頼ろうかと思ったわけだ。
いいか辰野。お前のそれはもしかしたら一種の才能かもしれないんだぞ。無駄に眠らせておくよりはもっと鍛えてだな、例えば探偵だのハウスキーパーだのになることを真剣に考えるのもいいと思うんだがな……」
半分くらいから聞いていなかった。
代わりに考えていたのはこれは断るタイミングを逃したな、ということと、もう金輪際藍の家には誘われても遊びにはいかん、ということであった。
そう決心するといまだに寝こけている藍の襟足をつかんで引きずり起こす。穏やかなまどろみを邪魔された藍は不服そうにとろんとした瞳でこちらをのぞいたが、俺の背後にがっちりと肩を捕まえて(いつの間に!?)喋り続ける高屋敷の姿を発見すると事態を理解したのかぱたりと動きを止めた。
「面倒な事にしてくれたな。付き合え」
がくがくと壊れた扇風機のように首を起こしながら縦に振る藍。すでに俺の肩を掴んだまま囀りながら準備室へと歩き出した高屋敷に追いつくため、右手に荷物、左手に藍をつかまえて走り出す。
「……ごめん。まさかそう来るとは思わなかった……」
「もういいって。とりあえず今日という日はなかったものと考えれば何とかなる。
マスクの替え用意しとけよ。そんなグチョグチョのやつ付けていったら埃で窒息するぞ」
「僕のこと心配してくれるぐらいなら帰らせてほしいんだけどね」
「まあそれはそれってやつだ」
高屋敷徹(たかやしきとおる)。何かと話題の古文の教師。
とりあえずその背中を眺めて思った事は。
(……なんで部屋があんなに汚いのに着てる白衣にはシミひとつないんだろ……)
というようなどうでもいいことだった。




どこの学校にも七不思議というものは結構存在する。走る手首とか赤いちゃんちゃんことか笑う人体模型とかだ。七つ全部を知ってしまうと死が訪れるが、地方によっては隠された八つ目を見つけるとそれを回避できるだの言う話が追加されている都市伝説である。
その中でも比較的ポピュラーなのが「開かずの教室」シリーズだろう。どこが開かないのかは各学校によって違うのだが、大体老朽化して使われなくなった教室が閉鎖され口さがない生徒たちによっておどろおどろしいエピソードが貼り付けられたという由来である。
そのエピソードは非常に種類が豊富だ。生物実験室でホルマリン漬けが蠢くとか、音楽室でベートーベンの肖像がガン飛ばしてくるとか、社会化講義室で黒ミサが開かれるとか、体育器具倉庫から艶めかしい声が聞こえるとか(え?)。
だがしかし、まだしもこの話でマシなのは、開かずの間に足を踏み入れようとさえしなければどうにもなりはしないということだ。
しかるに。まあここまで言えば予想は付くだろうが……
「……うーん流石は『開きっぱなしの国語科準備室』。噂に違わぬ散らかりっぷり」
俺はそこで呟かざるをえなかった。
渡り廊下に面する通路の片隅に開け放されたひとつの扉。既に西日が差し込む部屋の内部は、片っ端から乱雑に積み上げられた書類や書物のために足の踏み場がないを通り越して獣道が出来ている。不自然に盛り上がった紙屑の山は、おそらく片付ければ机が発掘されるのではないか。なぜか窓際には飲み干したジュースの缶が綺麗に洗って干されている。
その名を七不思議伝説の一端に連ねる「その扉から不幸を撒き散らす『開きっぱなしの国語科準備室』」略して「パナコク」。少しでも手を触れれば紙吹雪ならぬ紙雪崩が起きそうな状態のその上に、高屋敷は新たに回収してきた課題のプリントを放り投げた。
(これもある意味才能だよね)
ジェンガでギネス記録でも狙ってろっつうの)
数年前までは普通の準備室だったここは高屋敷が赴任してきてからというもの急激なスピードでエントロピーを増大させ、少なくとも俺たちが入学してきたときには既に七不思議の筆頭に上がるほどに勢力を拡大していた。
何をやったのか知らないが立て付けが悪くなってドアがどうやっても九十度以上閉まらないのがその名の由来らしいが、まあ今となってはどうでもいいこと。
そもそも俺はパナコクがどうとか言う以前にこの教師が苦手なのである。
なんというか、言動が片っ端から非常識で人目を引くくせに、奇妙なほど存在感が無い。影が薄いと言うのか気配を消していると言うのか。
「まあ緊張しないで入れよ」
「うはう!」
気が付けば背後に忍び寄っている高屋敷。なんでわざわざ後ろから声をかけるのかあんたは。
しかしいくら俺がぼうっとしていたことを差っ引いたとしてもこれは異常だろう。いくらなんでも白衣姿が目の前をひらひらしていたら気が付かないわけも無いのに。
「それで、なんて書類を捜せばいいんですか?」
「その前にまずは少し掃除だろこりゃ」
いつの間にか部屋の中に入っていた藍に釘を刺す。
「そんなこと言ったってどれが必要でどれが不必要なのかわかんなきゃ掃除のしようもないじゃん」
「あ、そうか。それにさっさと見つけちまえばそれだけ時間の節約にもなるか」
「その心配は無いよ」
口を挟んでくる高屋敷。
「別にタイトルが付けてあったりひとつの封筒にまとめてあったりする訳じゃあないから。
日本各地の神話や伝承についてのレポートがあちこちに埋まっているはずだから。全部で何束だったか忘れたけど、それを掘り出して欲しい訳だ。
だからどっちみち部屋は全部ひっくり返して総ざらいしてもらいたい」
「………………」
「………………」
このときの俺たちの気持ちが理解できるだろうか。
絶望でも、殺意でも、燃え尽きたというわけでもない。おそらくは、この状況に一番ふさわしくないであろう感情が、不意に心を満たしていったのだ。
俺たちは笑っていた。
いま自分が置かれている状況が急に現実味を失って、まるでテレビで見ていたコントでカナダライが落ちてきたときのように「ああ、こうくると思ったんだよね」という奇妙なおかしさが胸中で爆発する。
「あはっははっはは、は、ふはっはははーーーー」
「はははっはああははひゃはっははっはーーーー」
こみ上げる涙は何のためか。
頭の中の自分で無い誰かが、「こりゃ脳味噌の神経どっか切れたな」と呟くのが聞こえたような聞こえないような。
そんな冷静な判断を下す誰かのことさえもおかしくて、肺の中の空気を全て吐き出し、また吸い込み、横隔膜を痙攣させながら、体力が尽きるまで俺たちは笑い続けーーーー。




……気がつけば高屋敷は既に掃除を始めていた。白衣に包まれた怪しい背中。それを見てようやく俺たちは、本来の目的を思い出す。
「……無駄な体力使っちまったもんだな」
疲れきった口調で俺は呻く。
笑いが収まったその後。まあいくらも時間が経ったわけでもない。一分もしてはいないだろう。無酸素運動が出来るのは確かそのくらいのはずだし。ただ単に筋肉中のATPを残らず使い切っているから長時間運動していたように思ってしまうというだけだ。
「なあ辰野」
のろのろと山積みされたゴミに一騎打ちを挑もうとしていた俺に声がかかる。
「なんすか」
振り向こうとするその動作をさえぎって、
「ああ、いいよ別に無駄話だから。そのまま聞いてくれ。
……お前、神話に興味があるのか?」
高屋敷は唐突に聞いてきた。
「あはは……なんでまた急に?」
苦笑しながら、言われたとおり背を向けて紙屑をゴミ袋に放り込みつつ返事を返す。
「いやなに、ほとんどの奴が寝てた話をお前だけがまともに聞いてたんでな。ちょっとそう思ったのさ」
「まあ、昨日は疲れてて帰ってからすぐ寝たんで。さすがに十五時間も寝てたら物理的に居眠りはしませんね」
「………………」
「ほんとに寝るの好きだね」
「まあな」
憮然と黙り込む高屋敷と会話に参加してくる藍。二人に聞かせるつもりでもう少し雑談を続けてみる。
「一日が終わって布団にもぐりこむ時のあのやすらぎ。眠るか眠らないかのぎりぎりのラインで脳内麻薬でも出てるんじゃないかって言う快感を与えてくれる浮遊感。バイオリズムに合わせて起きたときのどんよりした重みが無い爽快感。
どれをとってもこれに勝るものなし!
もちろんこれらを最大限に味わうために、目覚ましを一時間ずつ時間差でセットしておくのは基本。最低三個」
「さすが自称『生物の三大欲求の中で睡眠欲が一番強い男』だねぇ」
相槌を打ってくれる藍の向こう側でどうにも寂しそうに高屋敷は真っ白い背中を向けていた。なのでまあ、いちおう
「それでもつまらない授業だったらこんな時期に聞いてたりはしないんすけどね」
とフォローを入れてみたり。
「そ、そうだろ?」
「古代人の哲学っていうのも現代と大して違わなかったりもするし」
「そりゃまあ人間なんて簡単に変わるもんじゃないからな」
「それにしても人間っていうのははっきりしないことが嫌いなんだって思いますね」
「ん?」
「なぜ自分たちはここにいるのか。なぜ自分たちはこんな生活をしているのか。その辺のことを何とかして分かりたいって言う気持ちがあったんでしょうね」
「その気持ちから生まれ出た一つの真理が神話だ、ってことだな」
「時代遅れのものなのに、なんかロマンがあったりしますよね」
なんだか話がはずんでしまう俺たち。
と、
「でもね、神話なんてそれこそ、建国した古代の政治家が国をまとめるために一番初めについた嘘ってだけの意味しかないと思うんだけど?」
「……確かに政治家は嘘を付くのが仕事みたいなところはあるけどさ」
唐突に藍は横から随分ときついことを言ってくる。
「興味を持つのはいいにしても、信じてしまうのはどうかと思いますよ」
授業中の高屋敷の発言に向かってだろう、そう言い残すと次々と窓際の空き缶を捻り潰していく。
……その姿に何か苛付いたものを感じて、俺たちはなし崩しに話を取りやめ、黙々と掃除を再開した……







柔らかい夜風が身を刺すこともなく肌を撫でて通り過ぎる。周りには虫たちの鳴き声。空に浮かぶ月は満ち切ってはいない。中途半端に投げ下ろされた月影を身に受ける、それは今の自分に似合いにも思えた。
贋物の光のせいで星が見えない。遠くに見える海の近く、わだかまる地上の星の海。いつものこととはいえそれが慰めになるわけでもない。星は変わらないのに。自分も変われないのに。
幾度となく繰り返された昼と夜は、やすりで削り取るように、見慣れた世界の姿をすっかり奪い去ってしまった。
無常と言うらしい。いつの間に覚えたのかももはや定かではないが。
いつまで待てばいいのだろう。
思う。諦めが早すぎるのか遅すぎるのか。疲れた心地で見上げる楕円の月は、手を伸ばしても掴める様には思えない。遠い――――。
また風が吹き過ぎる。珍しく湿気を含まない夏の風が心地よく、纏いつく様な衣の裾を舞い上げた。風の行く先を追いかけるように視線を流し、ふと自分の間違いに気が付いて苦笑する。風?
もはや自分を風が捉えられる訳がないではないか。掲げた両の手が月影を透かして黄金に光り、見下ろせば、社の瓦が光の中で緑に照り映えるなか、自分の小さな体がふわりと宙に浮いている――――。







「……っ!?」
がくりと頭が首から滑り落ちて目が覚めた。
「……ああ、そうか」
それでようやく夢だと気が付き、遅れて現実に意識が向いてくる。
結局その日の放課後すべてを潰しても掃除は終わらなかった。おそらくは強引にまた付き合わされるんだろうなと思うと憂鬱の虫に襲われる。出来る限り顔を会わせないように気をつけないと。
……結局あの後も藍とは一言も口を聞くことなく、パナコクを出たところで用事があるようなことを言って先に帰した。
あいつに何を考えているのかはわからなかったが、とりあえず今は二人でいたくはなかった。多分お互いに。
電車を何本か乗りつぎ、小一時間かけて家路を辿る。運良く座れれば心地良いひとときを過ごす事も出来ようが、突っ立ったままではひたすら疲れた体をもてあますしかない帰り道。
今回は何とか席を手に入れることが出来た。
いつものように荷物を抱えて窓ガラスに後頭部をもたせかけ、いつものように規則的な振動に身をゆだねて、いつものように夢の中へと沈んでいった。
いつもと違ったのは夢だけだった。
なんだか知らないがやたらとリアルな、夜の神社の中で疲れ果てている自分。夢の常でもはや早々に忘れ始めたその内容の中、鮮烈に印象に残ったのは、
「……中華風幽霊?」
とでも表現すべき「自分」の姿。
印象だけなら巫女服に似ていなくもないような白と赤のゆったりした複雑な上下の揃いに金糸でびっしりと紋様のような縫い取りを施し、昔話に出て来る天女の衣のようなひらひらした布を纏っていた少女。
総じて見ると古代中国の唐衣の様な雰囲気なのだ。
「……珍しい」
というのが正確なのかは知らない。ともかく俺はそんなものを見た覚えはなかったから。脳の記憶に残るものでしか造られることのない夢の世界に、知る由もない異国の衣装が登場するのはとにかくおかしな話だと思った。
専門家に言わせれば、見たことはあってもそれを表層記憶に留めていないから見たことのないものだと感じているのだ、とでも言うのだろう。
なんにせよ。
「…………」
降りる駅まであと一つ。体に刷り込まれた命令に従って、定期入れをポケットから探り出した。呆けた頭でも事足りる無意識のままの基本行動。
車内放送が目当ての駅名を告げるころには珍妙な夢は綺麗さっぱり忘れ果てていた。




だからどうしたというわけでもないことが、この世の中には多すぎる。