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ハルヒ関連でなんとなく。
http://members.jcom.home.ne.jp/vampirdzhija/#060704
一言言えることは、間違いなくアニメ史に残るであろう作品をリアルタイムで
最初から最後まで見続けられたことを本当に幸せに思います。
大げさに言えば、伝説が作られていく場に立ち会えたようなものですゆえ。第一回という栄えある回に『朝比奈ミクルの冒険』を持ってくるという暴挙に始まり
一晩にしてyutubeをハレ晴レユカイが席巻し、その後の放送でも原作で言う『憂鬱』を
一気に放送せず、間々に別にエピソードを挟むという、一歩間違えばワケ分からんと
断じられかねない特殊な構成を用いつつも、見ている側に参ったしか言わせない、
飛びぬけたクオリティを如何なく見せ付け、毎回毎回放送終了後にはオタ世界を大いに
盛り上げ、劇中歌を放送の数日後には売り、更にはオリコンの上位に食い込ませる売り上げを
叩き出し、DVDは出るや否や売り切れるという異常とも言える事態を引き起こし………と、大雑把に挙げてみてもこれぐらいの事例があるわけで。
あと、最終回はキョンとハルヒが手を繋いで走っているところが原作とは
雰囲気変ってましたが、アニメ版の見せ方の方が個人的には好きかも。
キョンもハルヒもちっとも深刻そうじゃなく、楽しそうに「俺は戻りたい!」とか
言ってるのがなんかすげえキョンらしいというかなんというか。
目には見えないことが多いけど、
この世界は確実に楽しいことで満ちている。
退屈も、無駄なことも、意味の無いことも、自分に害をなすものでさえ、あるいは。
楽しい日常のエッセンスたり得る。逆説的ではあるが。
青春っていいよね。
つーか単なるドタバタラヴコメ。
(淡々と話が進むのでドタバタって印象薄いけど、分類的には多分合ってるかと)本当にただそれだけ。
ちょっとSF風味……と断る必要もない。
あの設定自体はドタバタの部分を作り出すためのギミックに過ぎず、それゆえに陳腐。
むろん、それは狙って陳腐なワケで。見よ。
ハルヒを監視する人間たちの「設定」の何と滑稽なことか。3人が自分の正体を語るシーンでは、読者はキョンと同様、
「ハァ? 電波ですか?」
という感想しか持てないし、それが真実だと証明されたところで変わることはない。滑稽な設定は滑稽なまま、呆れるべき存在として、読者を置き去りにする。
つまり傍観者である、作中で「唯一マトモな人間である」キョンとハルヒを置き去りにする。そう、ハルヒは単なる普通の人間に過ぎない。
如何に作品世界で「造物主」としての「肩書き」を与えられてるとしても、
作品が彼女に求めている「役割」は真人間のヒロインでしかない。
世界の異常性からは最も遠い場所にいる。ハルヒは誰しもが抱く青春の苛立ちに翻弄されて暴れているただのドキュン。
つまり一番くだらなくて、一番つまらなくて、それゆえに一番読者に近い。
実に微笑ましい。キョンはキョンで彼女よりか大人に見えるんだが、
実際は悟った気になってるだけの、まあ要するに青臭い普通の少年。
(だからラストで開き直ることが出来ない。
あんな半狂乱になって身悶えするほど恥ずかしい思いをする羽目になる。
実に微笑ましい)「涼宮ハルヒの憂鬱」はそんな不器用な2人の、見ているこっちがむず痒くなる、実に微笑ましいラヴコメである。
「世界の危機」はドタバタを盛り上げること以外に何の力も持たない。
欠片ほどの危機感を持たない。
だって、当たり前だ。
世界が滅びるワケがない。そんなことは約束されてしまっている。宇宙人と未来人と超能力者が必死になって駆け回るあの滑稽な世界は、青春のガラクタに過ぎない。
それは宝石にも似た、ガラス玉の輝きのようなものだ。
http://d.hatena.ne.jp/hagane-o/20060703#p1
「俺は戻りたい」云々言ってるときのキョンが深刻な面持ちではなくて笑っているところが、なんつーか、こう狡い。
上手いなあ。
つまり、何が言いたいかというと。
俺はこの物語に出会えて幸せだ。
既存の物語、舞台、雰囲気、キャラクター、それについての演出、配役、音楽、作画、販促のありとあらゆるものが全て複雑に絡まりあってこの作品は何がしかの金字塔を打ち立てた。
あー、六時間耐久観賞大会とかしながら延々感想言い合いてー。
往年のエヴァンゲリオンクラスとまでは行かないが、このインパクトは業界を牽引する原動力になるのではないか。なるといいなあ。